姫金魚草
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カテゴリー「恋戦記・蜀」の記事一覧
- 2024.11.25 [PR]
- 2010.09.23 救いの腕(鳥篭ED後IFストーリー2)
- 2010.07.07 七夕 (玄徳)
- 2010.06.28 天国じゃない (孔明)
- 2010.05.16 やさしいキスを (翼徳)
- 2010.05.03 君に見る (雲長)
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天国じゃない (孔明)
彼女の故郷のことを訊ねた。
頁は埋まり、空白は満たされた。条件が整ったことを、彼女の表情が教えてくれた。
優しい彼女は、迷っていた。情に絆される性質だと、知っていた。
此処で過ごした日々を切り捨てることが、彼女にとって容易くないことを知っていた。
だから、訊ねた。
里心がついた彼女が、できればボクの知らないところで、ひっそりと居なくなってくれればいい。
自らの手で別れを演出するのは、どうしたって泣いてしまいそうで、出来ればやりたくなかったのだ。
* * *
「私の国、ですか?」
「うん」
花はきょとんと目を開いた。瞳の大きな彼女は、目を見開くと唯でさえ幼い顔がさらに幼く見える。孔明の弟子、というには余りに可愛らしいその表情が、好きだった。
「師匠を名乗っておきながら、そういえば聞いてないと思ってね。なんでもいいんだ。……そうだな、話しづらければ、君のことを話してくれればいい」
異国の話は、参考になるものだよ。たとえ、何処とも知れぬ、遠い世界の話でも。
何を含んだ風も見せずに言うと、花は少し考え込んで、考え考え口を開いた。
「私のこと、と言っても、ごく普通の高校生でしたし」
「だからそもそも、こっちには『こうこうせい』なんて居ないでしょう」
からかう風に言うと、やっと、向こうの普通がこちらでの異常だということに気付いたらしい。それからの口は、滑らかになった。
「私の国では、六歳から私くらい……もう少し上くらいまでは、皆、働かずに学校に通うんです」
「がっこう?」
「はい。こちらでいうと、塾のようなものでしょうか」
「塾、か。でも、本当に全員が通うの?」
こちらの世界では考えられない話だ。学問は、一部のものの特権とも言える。
多くの民は、字も知らず、日々の糧を得るのに手一杯で、学を得るには身分か富か、よほどの志が必要だった。
「はい。私も、普通のうちの娘ですし」
「普通、」
普通の基準が、随分と高い。この歳よりも上まで、稼ぐことの無い人手を育てられるのが普通というのだ。
「学校では、どんなことをやるの」
「んーと、国語……えっと、詩文が近いかなぁ、あと、算術、英語……ええと、異国の言葉です、歴史、それと理科……えーと……なんていったらいいんだろう……」
「……うん、幅広くやるんだねぇ」
学問の体系もこちらとは違っているようだ。説明するのが難しそうなので、そのあたりはさらりと流しておく。
「君の父上は、何をしている人なの」
「普通のサラリーマン、……えーっと、勤め人です」
「官吏のようなもの?」
「官吏、は公務員なのかな……。国に勤めているわけじゃないんですけど」
「……奉公人?」
「……うーん?」
どうやら少し違うらしい。とかく、社会の仕組みそのものが違う。
彼女が、まるで違う常識の中にいたということを、近頃はさして意識することもなくなった。しかし、こうして話してみると、やはり彼女はどうあっても、この世界の住人ではありえなかった。
「……君の国には、戦もないんだったね」
結局、この話になってしまうのだ、と思う。戦乱の最中において、どうしても考えに上ってしまうこと。花は少し困ったように、首を傾けた。
「ない、わけではないんですけど。今は無い、というのが、正しいんじゃないでしょうか」
「昔は、あった?」
「はい。私が生まれるより、ずっと前の話です。……今も、私の国でないところでは、戦争がありますし」
戦争。
それは、戦と同じ意味なのだろうに、随分と違う響きに聞こえた。
「でも今は、平和なんでしょう」
なぜか、口の中が乾くような心地がした。
彼女からは、豊かさの香りがした。危険に晒されることも無く、日々の暮らしに困ることも無い、幸福なあたたかさの香りだ。彼女の育ってきた、優しい世界の香りだ。
彼女の世界は、どうして、どうしたって、優しくなくてはならないのだ。
(そうでなくては、)
「そうですね。……これからも、そうだといいです」
彼女が、何の気もなく答えただろう、その言葉が。
刺すように、孔明の胸を抉った。
(これからも、そうだといい?)
(それじゃまるで――そうじゃない可能性が、あるみたいじゃないか)
恐らく、驚いた顔をしていたのだろう。花は不思議そうにこちらを見て、それから、やはり、なんでもないことのように笑って言った。
「戦争が起きることなんて、無いと思いますけど。でも、先のことはわかりませんから」
先のことは。
それはそうだ。彼女は、彼女の言葉を借りるなら『普通のこうこうせい』で、そんな人間に、国の行く末など知れよう筈もない。ぱちりと目を瞬いた孔明の前で、花はただごく普通に、笑う。
「戦も争いも永劫に無い、平和な国――そんな、天国みたいな国が、あればいいですよね」
ああ、と。
打ちのめされたような気分で、思った。
(ボクは、――君の世界が)
(君の世界こそが、そんな、「てんごく」みたいな国だと、思っていたのに――)
そうではないのか、と。
問うことは、出来なかった。そうでないとしても。そうでないとしても、彼女はそこに、帰らなければならないのだ。少なくともここより、戦も争いもない筈の、平和であるはずの、彼女の世界に。
帰さなければ、ならないのだ。
師匠? と首を傾げる花になんでもない、と笑いながら、何故か酷く焦るような、どうしようもない心持になる。
彼女の帰る世界が、「てんごく」ではないというなら。
なら自分の手元において、彼女を包むように守ってやれば、――そんな風に思う自分が、余りにも勝手で、笑ってしまいそうになった。
(言葉選びに苦心する。)
(天国や楽園はキリスト教由来の言葉?)
(極楽は仏教由来? この当時仏教は、多分入って来てたけど(浮屠ってやつ?)メジャーだったのか?)
頁は埋まり、空白は満たされた。条件が整ったことを、彼女の表情が教えてくれた。
優しい彼女は、迷っていた。情に絆される性質だと、知っていた。
此処で過ごした日々を切り捨てることが、彼女にとって容易くないことを知っていた。
だから、訊ねた。
里心がついた彼女が、できればボクの知らないところで、ひっそりと居なくなってくれればいい。
自らの手で別れを演出するのは、どうしたって泣いてしまいそうで、出来ればやりたくなかったのだ。
* * *
「私の国、ですか?」
「うん」
花はきょとんと目を開いた。瞳の大きな彼女は、目を見開くと唯でさえ幼い顔がさらに幼く見える。孔明の弟子、というには余りに可愛らしいその表情が、好きだった。
「師匠を名乗っておきながら、そういえば聞いてないと思ってね。なんでもいいんだ。……そうだな、話しづらければ、君のことを話してくれればいい」
異国の話は、参考になるものだよ。たとえ、何処とも知れぬ、遠い世界の話でも。
何を含んだ風も見せずに言うと、花は少し考え込んで、考え考え口を開いた。
「私のこと、と言っても、ごく普通の高校生でしたし」
「だからそもそも、こっちには『こうこうせい』なんて居ないでしょう」
からかう風に言うと、やっと、向こうの普通がこちらでの異常だということに気付いたらしい。それからの口は、滑らかになった。
「私の国では、六歳から私くらい……もう少し上くらいまでは、皆、働かずに学校に通うんです」
「がっこう?」
「はい。こちらでいうと、塾のようなものでしょうか」
「塾、か。でも、本当に全員が通うの?」
こちらの世界では考えられない話だ。学問は、一部のものの特権とも言える。
多くの民は、字も知らず、日々の糧を得るのに手一杯で、学を得るには身分か富か、よほどの志が必要だった。
「はい。私も、普通のうちの娘ですし」
「普通、」
普通の基準が、随分と高い。この歳よりも上まで、稼ぐことの無い人手を育てられるのが普通というのだ。
「学校では、どんなことをやるの」
「んーと、国語……えっと、詩文が近いかなぁ、あと、算術、英語……ええと、異国の言葉です、歴史、それと理科……えーと……なんていったらいいんだろう……」
「……うん、幅広くやるんだねぇ」
学問の体系もこちらとは違っているようだ。説明するのが難しそうなので、そのあたりはさらりと流しておく。
「君の父上は、何をしている人なの」
「普通のサラリーマン、……えーっと、勤め人です」
「官吏のようなもの?」
「官吏、は公務員なのかな……。国に勤めているわけじゃないんですけど」
「……奉公人?」
「……うーん?」
どうやら少し違うらしい。とかく、社会の仕組みそのものが違う。
彼女が、まるで違う常識の中にいたということを、近頃はさして意識することもなくなった。しかし、こうして話してみると、やはり彼女はどうあっても、この世界の住人ではありえなかった。
「……君の国には、戦もないんだったね」
結局、この話になってしまうのだ、と思う。戦乱の最中において、どうしても考えに上ってしまうこと。花は少し困ったように、首を傾けた。
「ない、わけではないんですけど。今は無い、というのが、正しいんじゃないでしょうか」
「昔は、あった?」
「はい。私が生まれるより、ずっと前の話です。……今も、私の国でないところでは、戦争がありますし」
戦争。
それは、戦と同じ意味なのだろうに、随分と違う響きに聞こえた。
「でも今は、平和なんでしょう」
なぜか、口の中が乾くような心地がした。
彼女からは、豊かさの香りがした。危険に晒されることも無く、日々の暮らしに困ることも無い、幸福なあたたかさの香りだ。彼女の育ってきた、優しい世界の香りだ。
彼女の世界は、どうして、どうしたって、優しくなくてはならないのだ。
(そうでなくては、)
「そうですね。……これからも、そうだといいです」
彼女が、何の気もなく答えただろう、その言葉が。
刺すように、孔明の胸を抉った。
(これからも、そうだといい?)
(それじゃまるで――そうじゃない可能性が、あるみたいじゃないか)
恐らく、驚いた顔をしていたのだろう。花は不思議そうにこちらを見て、それから、やはり、なんでもないことのように笑って言った。
「戦争が起きることなんて、無いと思いますけど。でも、先のことはわかりませんから」
先のことは。
それはそうだ。彼女は、彼女の言葉を借りるなら『普通のこうこうせい』で、そんな人間に、国の行く末など知れよう筈もない。ぱちりと目を瞬いた孔明の前で、花はただごく普通に、笑う。
「戦も争いも永劫に無い、平和な国――そんな、天国みたいな国が、あればいいですよね」
ああ、と。
打ちのめされたような気分で、思った。
(ボクは、――君の世界が)
(君の世界こそが、そんな、「てんごく」みたいな国だと、思っていたのに――)
そうではないのか、と。
問うことは、出来なかった。そうでないとしても。そうでないとしても、彼女はそこに、帰らなければならないのだ。少なくともここより、戦も争いもない筈の、平和であるはずの、彼女の世界に。
帰さなければ、ならないのだ。
師匠? と首を傾げる花になんでもない、と笑いながら、何故か酷く焦るような、どうしようもない心持になる。
彼女の帰る世界が、「てんごく」ではないというなら。
なら自分の手元において、彼女を包むように守ってやれば、――そんな風に思う自分が、余りにも勝手で、笑ってしまいそうになった。
(言葉選びに苦心する。)
(天国や楽園はキリスト教由来の言葉?)
(極楽は仏教由来? この当時仏教は、多分入って来てたけど(浮屠ってやつ?)メジャーだったのか?)
やさしいキスを (翼徳)
花は少し、浮かれていた。
玄徳軍が益州に居を構えてから、どうにも忙しい日々が続いていた。
「そろそろ落ち着いてきたし、明日はおやすみにしようか」
「え」
突然孔明がそう言って、明日は一日休みになった。きっと明日はいい天気だよと、かの孔明のお墨付きまで頂いた。なんだかとてもうきうきしてくる。
翼徳は休みではないだろうけれど、調練が早く終わったら、少しのんびりできるかもしれない。久しぶりに手の込んだものを作って待っているのもいい。とにかく、お休みだ。孔明について働くのは楽しいし、役に立っていると思うと誇らしい。それでも毎日書簡に向かい、ばたばたと廷内を走り回りでは、たまの休みも欲しくなる。
「ありがとうございます!」
「うんうん、弟子の喜ぶ顔は嬉しいねぇ。ま、ゆっくり羽を伸ばしておいで」
明後日からはまたしっかり働いてもらうからね――そう釘をさされても、やはり、浮き立つ気分は止められなかった。
* * *
「……翼徳さん、遅いな……」
浮き立つ気分は、数刻も持たなかった。帰ってきて、早速休みのことを伝えようと、わくわくしながら待っているのに、大分夜が更けても翼徳は帰ってこない。
今日は宴の予定はなかったと思うんだけど、仕事が忙しいのかな。冷めた夕餉を前にしょんぼりとしていると、表から声が聞こえてきた。
帰って来た。
ぱっと顔を上げて、館を出、門へと走る。遅かったですねと、文句の一つも言ってやろうと、そう思っていた花は、表の様子を見て固まった。
「……すみません、すっかり潰れてしまわれて」
申し訳なさそうな顔をする兵士が三人。とにかく大柄な翼徳を運ぶのには、並みの兵士が三人は要るということか。微妙に現実逃避気味に思ってから、我ながら冷えた声だと自覚しつつ、問いを発した。
「……今日は、宴席の予定がありましたっけ?」
「え、と。翼徳将軍が、相談があると言って、お酒を持ってこられて」
彼等は悪くない。花にも勿論そんなことはわかるので、追求するのはやめにした。
「そうなんですか。……すみません、私一人じゃ運べないので、中までお願いしてもいいですか?」
「はい」
兵士三人はとかく恐縮した面持ちだ。そのうちの一人が見知った顔だと気がついて、花はますます気分が下がるのを感じた。
「あれ、……芙蓉姫の」
「あ、えっと、……はい」
僅かに頬を染めて頷いた兵士は、雲長の部下の、名前は忘れてしまったけれど、最近芙蓉姫の想いの通じた相手だ。これは芙蓉姫にまで迷惑をかけたかもしれないと思えば、思わず溜息も漏れてしまう。
明日の休みは、この件を質すところからはじまりそうだ。……うきうきしていた気分が吹き飛んでしまうには、充分すぎる出来事だった。
* * *
三人がかりで寝台まで運んでもらって、やっと落ち着く。翼徳は何も知らぬ顔で、平和な寝息を立てている。恨めしい、と思いながら、つんとその頬をつついた。
最近はこんなことも、随分減ってきていたのに。
翼徳は、酒癖のいいほうではない。それでも花と――祝言を挙げてからは、あまり無茶をやらなくなっていた。
喉もと過ぎれば? ……少し違うか。
(それとも、……違わない、のかな)
嫌な考えだ。慌てて頭を振る。相談事と言っていた。もちろん、なにか事情があって……
(……相談、ごと)
嫌な考えが――嫌な方向に、結びつく。
今はこうして二人――花も孔明の元で働いているから、家のことを手伝ってくれる者は雇っているけれど、基本的には二人で、館で暮らしている。
(いやに、なった、とか)
人の気持ちは移ろうものだ。花だって、それくらいのことは弁えている。
反面、突飛な考えであるともわかっていた。翼徳は変わらずやさしいし、忙しいけど幸せな日々を過ごしていると思う。
(……だけど)
疑う理由も、――あるのだ。
花は、眠る翼徳を見下ろした。子供のような顔で眠っている。……寝顔を見るのは、久しぶりだった。
同じ褥で寝ていないなど、芙蓉姫あたりが知ったら愕然とするだろう。物凄い勢いで問いただしてくるか、翼徳のところに殴りこみに行くか。
遅くなることもあるからと。
自分は身体が大きいからと。
そんな風にしどろもどろに言って、翼徳は花のために寝室を一つ誂えた。どちらも頷ける理由ではあったので、それ以来花はそちらで寝起きをしている。
寂しいと思うのは、はしたないだろうか。
花は翼徳の髪に手を伸ばした。癖のある、柔らかい髪。なんだか随分と、ふれていないような気がした。
「……さみしい、です」
だからあんなに、休みが嬉しかったのかもしれない。翼徳と少しでも長い時間一緒にいられるかもしれないと、思ったから。
その瞬間に。
「……ん」
手の中の髪が、ふわりと揺れた。小さな声の後、ゆっくりと目が開かれる。
起こしてしまった、と、慌てて手を離す。
そのままひっこめようとした腕が、掴まれた。
「!」
「……花、」
まだ酔いが残っているのか、とろりとした目をしている。手が熱い。どうしていいかわからずに固まっていると、そのままぐいと腕を引かれた。
翼徳の胸に、倒れこむような形になる。酔っているからだろうか、なんだかとても熱い肌に、どくんと一つ大きく鼓動が跳ねた。
「翼徳さ、」
「花、」
息も熱い――なにもかもが、融かされる、と思うほどに、熱かった。身動きが取れなくなる。痛みを感じるほどの、強い力で抱きしめられた。
「……っ」
息が詰まる。痛いのに、嬉しいと思う。もっと強く抱きしめて欲しいと思う。抱きしめ返そうと背に回した腕が、呟きで止まった。
「壊さないかって、……聞いたんだ」
「……え?」
「ちっちゃくて細くてやわらかくて。……オレみたいなのが触ったら、潰れちゃうんじゃないかって」
何の話だろうと思い、思い至った瞬間に、体温が上がる。
「大丈夫だって笑われた。……大丈夫なのかな。痛くない?」
少し痛い。けれど、嬉しいほうが強いから、痛くないです、とささやきを返した。あまり、聞こえている気はしないけれど。
「やさしくしたい。痛いのはダメだ。……でも一緒に寝てたり。ぎゅってしてると。そういうことを忘れちゃうんだ」
「……」
そんなことを。
そんなことを、考えていたのか。
なんだか脱力してしまうような、笑ってしまうような――どうしようもなく、嬉しいような。
口の端が上がってしまう。止まっていた手で、思い切り抱きしめる。
「忘れちゃってください」
そんなことは、忘れたって、全く構わないことだから。
「忘れて――もっとずっと、ぎゅってしてください」
どうしようもなく幸福だ。花の声に、翼徳が頷いたような気がした。腕の力が僅かに緩んで、顔が見えた。まだとろんとしている目だ、今日のことは忘れてしまうかもしれない。
けれど――こうして想いが聞けた。
翼徳の唇が、降りてくる。反射で目を閉じると、その優しい唇は、唇ではなく頬におちた。いとおしむように慈しむように、とにかくただただ、大切にするように。
花もまた、同じ思いを込めて、口付けを返した。今日はこのまま、眠ってしまおうと思う。くっついて、ぎゅっとして。
何せ明日は、おやすみなのだから。
(頬へのキスは、厚意の)
(まだぷらとにっくな……)(え)
玄徳軍が益州に居を構えてから、どうにも忙しい日々が続いていた。
「そろそろ落ち着いてきたし、明日はおやすみにしようか」
「え」
突然孔明がそう言って、明日は一日休みになった。きっと明日はいい天気だよと、かの孔明のお墨付きまで頂いた。なんだかとてもうきうきしてくる。
翼徳は休みではないだろうけれど、調練が早く終わったら、少しのんびりできるかもしれない。久しぶりに手の込んだものを作って待っているのもいい。とにかく、お休みだ。孔明について働くのは楽しいし、役に立っていると思うと誇らしい。それでも毎日書簡に向かい、ばたばたと廷内を走り回りでは、たまの休みも欲しくなる。
「ありがとうございます!」
「うんうん、弟子の喜ぶ顔は嬉しいねぇ。ま、ゆっくり羽を伸ばしておいで」
明後日からはまたしっかり働いてもらうからね――そう釘をさされても、やはり、浮き立つ気分は止められなかった。
* * *
「……翼徳さん、遅いな……」
浮き立つ気分は、数刻も持たなかった。帰ってきて、早速休みのことを伝えようと、わくわくしながら待っているのに、大分夜が更けても翼徳は帰ってこない。
今日は宴の予定はなかったと思うんだけど、仕事が忙しいのかな。冷めた夕餉を前にしょんぼりとしていると、表から声が聞こえてきた。
帰って来た。
ぱっと顔を上げて、館を出、門へと走る。遅かったですねと、文句の一つも言ってやろうと、そう思っていた花は、表の様子を見て固まった。
「……すみません、すっかり潰れてしまわれて」
申し訳なさそうな顔をする兵士が三人。とにかく大柄な翼徳を運ぶのには、並みの兵士が三人は要るということか。微妙に現実逃避気味に思ってから、我ながら冷えた声だと自覚しつつ、問いを発した。
「……今日は、宴席の予定がありましたっけ?」
「え、と。翼徳将軍が、相談があると言って、お酒を持ってこられて」
彼等は悪くない。花にも勿論そんなことはわかるので、追求するのはやめにした。
「そうなんですか。……すみません、私一人じゃ運べないので、中までお願いしてもいいですか?」
「はい」
兵士三人はとかく恐縮した面持ちだ。そのうちの一人が見知った顔だと気がついて、花はますます気分が下がるのを感じた。
「あれ、……芙蓉姫の」
「あ、えっと、……はい」
僅かに頬を染めて頷いた兵士は、雲長の部下の、名前は忘れてしまったけれど、最近芙蓉姫の想いの通じた相手だ。これは芙蓉姫にまで迷惑をかけたかもしれないと思えば、思わず溜息も漏れてしまう。
明日の休みは、この件を質すところからはじまりそうだ。……うきうきしていた気分が吹き飛んでしまうには、充分すぎる出来事だった。
* * *
三人がかりで寝台まで運んでもらって、やっと落ち着く。翼徳は何も知らぬ顔で、平和な寝息を立てている。恨めしい、と思いながら、つんとその頬をつついた。
最近はこんなことも、随分減ってきていたのに。
翼徳は、酒癖のいいほうではない。それでも花と――祝言を挙げてからは、あまり無茶をやらなくなっていた。
喉もと過ぎれば? ……少し違うか。
(それとも、……違わない、のかな)
嫌な考えだ。慌てて頭を振る。相談事と言っていた。もちろん、なにか事情があって……
(……相談、ごと)
嫌な考えが――嫌な方向に、結びつく。
今はこうして二人――花も孔明の元で働いているから、家のことを手伝ってくれる者は雇っているけれど、基本的には二人で、館で暮らしている。
(いやに、なった、とか)
人の気持ちは移ろうものだ。花だって、それくらいのことは弁えている。
反面、突飛な考えであるともわかっていた。翼徳は変わらずやさしいし、忙しいけど幸せな日々を過ごしていると思う。
(……だけど)
疑う理由も、――あるのだ。
花は、眠る翼徳を見下ろした。子供のような顔で眠っている。……寝顔を見るのは、久しぶりだった。
同じ褥で寝ていないなど、芙蓉姫あたりが知ったら愕然とするだろう。物凄い勢いで問いただしてくるか、翼徳のところに殴りこみに行くか。
遅くなることもあるからと。
自分は身体が大きいからと。
そんな風にしどろもどろに言って、翼徳は花のために寝室を一つ誂えた。どちらも頷ける理由ではあったので、それ以来花はそちらで寝起きをしている。
寂しいと思うのは、はしたないだろうか。
花は翼徳の髪に手を伸ばした。癖のある、柔らかい髪。なんだか随分と、ふれていないような気がした。
「……さみしい、です」
だからあんなに、休みが嬉しかったのかもしれない。翼徳と少しでも長い時間一緒にいられるかもしれないと、思ったから。
その瞬間に。
「……ん」
手の中の髪が、ふわりと揺れた。小さな声の後、ゆっくりと目が開かれる。
起こしてしまった、と、慌てて手を離す。
そのままひっこめようとした腕が、掴まれた。
「!」
「……花、」
まだ酔いが残っているのか、とろりとした目をしている。手が熱い。どうしていいかわからずに固まっていると、そのままぐいと腕を引かれた。
翼徳の胸に、倒れこむような形になる。酔っているからだろうか、なんだかとても熱い肌に、どくんと一つ大きく鼓動が跳ねた。
「翼徳さ、」
「花、」
息も熱い――なにもかもが、融かされる、と思うほどに、熱かった。身動きが取れなくなる。痛みを感じるほどの、強い力で抱きしめられた。
「……っ」
息が詰まる。痛いのに、嬉しいと思う。もっと強く抱きしめて欲しいと思う。抱きしめ返そうと背に回した腕が、呟きで止まった。
「壊さないかって、……聞いたんだ」
「……え?」
「ちっちゃくて細くてやわらかくて。……オレみたいなのが触ったら、潰れちゃうんじゃないかって」
何の話だろうと思い、思い至った瞬間に、体温が上がる。
「大丈夫だって笑われた。……大丈夫なのかな。痛くない?」
少し痛い。けれど、嬉しいほうが強いから、痛くないです、とささやきを返した。あまり、聞こえている気はしないけれど。
「やさしくしたい。痛いのはダメだ。……でも一緒に寝てたり。ぎゅってしてると。そういうことを忘れちゃうんだ」
「……」
そんなことを。
そんなことを、考えていたのか。
なんだか脱力してしまうような、笑ってしまうような――どうしようもなく、嬉しいような。
口の端が上がってしまう。止まっていた手で、思い切り抱きしめる。
「忘れちゃってください」
そんなことは、忘れたって、全く構わないことだから。
「忘れて――もっとずっと、ぎゅってしてください」
どうしようもなく幸福だ。花の声に、翼徳が頷いたような気がした。腕の力が僅かに緩んで、顔が見えた。まだとろんとしている目だ、今日のことは忘れてしまうかもしれない。
けれど――こうして想いが聞けた。
翼徳の唇が、降りてくる。反射で目を閉じると、その優しい唇は、唇ではなく頬におちた。いとおしむように慈しむように、とにかくただただ、大切にするように。
花もまた、同じ思いを込めて、口付けを返した。今日はこのまま、眠ってしまおうと思う。くっついて、ぎゅっとして。
何せ明日は、おやすみなのだから。
(頬へのキスは、厚意の)
(まだぷらとにっくな……)(え)
君に見る (雲長)
花の部屋の小さな机に、向かい合って座る。
二人分の参考書を広げれば、いっぱいになってしまうくらいの机。
「……うう」
「休憩するか?」
眉間に深く皺を刻んでうなり声を上げた花に、雲長は苦笑して声を掛けた。昼前にはじめて、休憩も挟まずに気付けばもう時計の針が二時間分進んでいた。
「……うん」
情けない顔で頷いた花に、コップに麦茶を注ぎ足して差し出す。両手でコップを受け取りちびちびと茶を飲む仕草が幼く、思わず小さく笑ってしまった。
「もう昼時だしな。なにか買ってくるか」
「ん、……簡単なのでよければ、作るよ」
趣味・料理の人に出すのは申し訳ないけど、と笑った顔は、すこし回復したように見える。この土日があければ期末の試験だ。二年次の最後の試験――進路選択にも係わってくるものだけに、花は随分根を詰めているようだった。
「今日は、親御さんはいないんだったか」
「うん。だから、私ので申し訳ないんだけど――」
「いや。なら、台所を借りてもいいか」
「え? それは、構わないけど」
驚いた顔をする花の頬を、軽く撫ぜる。
「疲れた顔をしている。……何か作ってくるから、すこし休んでいろ」
言って、立ち上がる。くれぐれも参考書など眺めているんじゃないぞ、と念を押して、階下の台所へと向かった。
* * *
勝手に食材を使ってしまうのは忍びなかったが、今日は両親とも遅くまで帰らないと聞いた。夕飯を作る際に買出しに行って、補充しておけば問題ないだろう。冷蔵庫の中を眺めながら、メニューを考える。温かいものがいいだろう、スープパスタでも作ろうか。
勝手の違う台所に戸惑いながらも、手早く調理を進めていく。
(……無理をするなとは、言えんな)
花の――疲れた顔を思い出しながら、小さく溜息をつく。彼女が何故ああも必死になっているのか、わからないではない。それをあまり、こちらに気取らせたくないと思っているのも。
進学。
あちらに居た長い期間から考えると、なんだかひどく違和感のある――けれどこちらの世界では、学生にとって人生を決めるといっても過言ではない問題だ。
広生はあちらの生が長いせいもあって、勉学など何処でもできるという感覚が強い。しかし、現実として、何を学びたいのか、それはどこで学べるのか、そのための学力が自分にあるのか、その手の問題は高校生である広生にもまた降りかかっている。
(彼女は、それに加えて)
広生は高い学力を有しており、学校でも最高学府の合格者候補と目されている。となれば自然、進学先は都内だと――少なくとも花は周りと同様にそう思っているのだろう。花自身の勉学への望みに加えて、恐らくは、広生とせめて近いところに行きたいという望みと、その二つを実現するために、少しでも学力を上げようと必死なのだ。
広生自身は、先程の通り――回りから求められる「合格」にも、また、進学先にも、さして拘りはない。けれどそれを告げたところで、彼女は怒るばかりだろう。そんな風に考えてはいけないと、諭されるに違いない。
だから広生に出来ることは、彼女の手助けをすることだけだ。学力的な面でも、それ以外でも。そして出来れば二人で、できるだけ多くの望みを叶えたい。
「……っと」
パスタの茹で時間をタイマーが告げて、慌てて火を止める。湯切りをして皿に盛り付け、スープをかける。ふうわりと、食欲をそそる香り。盆に並べて、スプーンとフォークを揃え、上へと向かった。
(俺は――彼女と生を共にすると、決めた)
(けれどそれだけでは、全てに足りて、全てに不足だ)
しかしてこう、悩みを共にすることもまた――ともに歩むと、言うことなのだろう。
* * *
「花、出来たぞ――花?」
部屋に入ると、参考書に伏して、花は寝息を立てていた。
眉が寄っている。そんなものを枕にしているからだろう、と溜息をついて、机に盆を置いて、花の身体を軽く揺らした。
「花、……ほら、食事が冷めるぞ」
「……ん」
う、と呻きに近い声を上げて、花が重たい瞼を開ける。こちらの顔を認めて、慌てて飛び起きた。
「わ、……っと、ごめん、寝てた」
「それは問題ないが、それを枕にするのはどうかと思うぞ。……どうせ忠告を聞かず、読んでいたのだろう」
「う」
図星だったのだろう。しゅんとした顔をする花の頭をまったく、と軽く叩くように撫ぜて、机の上の本を片付ける。皿を並べると、温かな香りに、花が僅かに頬を緩めた。
「……おいしそう」
「冷める前に食べるぞ。ほら」
カトラリーを差し出し、いただきます、と手を合わせる。花も慌てて手をあわせて、神妙にいただきます、と言った。しばらく、まだ熱いパスタをはふはふと無言で食べる。
「……おいしい。やっぱり料理上手だなぁ」
「そりゃあ、向こうでとはいえ、百年単位でやっていればな」
こちらでは色々と勝手も違うが、と返すと、尊敬の眼差しで見られた。
「私も練習しないとなぁ……料理も、教えてくれる?」
「ああ、幾らでも。……と言っても、来年以降の話になるだろうが」
「ん、そうだね」
来月に年度が替わり、それから一年――受験を無事終えるまでは。花はこくんと頷いて、パスタを啜った。
「……ほんとに、広生は、なんでもできて――すごいなぁ」
花が、ぽつりと――なんだか疲れたような声で、呟く。顔を上げると、花はどこか途方に暮れたような顔で、こちらを見ていた。子供のような顔だ。
「花、」
「私は――こっちでも、なんにもできない」
あっちでもこっちでも、教わってばかりだ、と。
かすかな笑みを浮かべた彼女は、ほんとうに、迷子の子供のような、不安げな目をしていた。
(何を、……言っているのか)
思わず、笑ってしまった。ゆっくりと不思議そうに目を瞬いた花を認めて、食器を僅かに横にずらし、花のほうへ身を乗り出した。
「……?」
「俺は長く――繰り返しただけだ。長いだけ、いろいろな事を知っているだけだ」
花の顔が、僅かに歪む。こちらの痛みを想うのだろう、と思えば、知らしめることは得策ではないとわかっていたが、彼女にはしっかりと、知っていてもらわねばならなかった。
「俺は――お前に、憧れてさえいるんだ」
「え、」
驚いた顔をする花の――唇ではなく、瞳の上、瞼へと、口付ける。反射で閉じられた瞼に、もう一度、柔らかく唇を落として。
「お前は、そうして――目的のために力を尽くすことを、知っている。それは強さだ。――俺が失ってしまっていた、強さだ」
囁くと、花の頬が僅かに染まった。恐る恐る開かれた目が、問う様にこちらを見上げる。
「私は……そんなこと、言ってもらえるようなことは、してないよ」
まだ惑う。身体を離して、食器も戻し、静かに答えた。
「お前と居ると、取り戻せる気がする。拙い言い方だが、……頑張れる気がするんだ」
「頑張れる、」
「ああ」
花の目を見つめて――笑う。
「一緒に、頑張ろう」
これから――長い日々を、共に歩むということ。
花はつられたように小さく笑って、頷いた。その表情を認めて、僅かに冷めてしまった食事の続きを再開する。すこし、安堵していた。
(俺が助けられたように、彼女を助けて)
(そうして、生きていくことが、出来る)
それは安らかで――とても優しい未来に見えた。二人でこうして食卓を囲むような、些細な幸せを積み重ねて、生きていくということ。そのために頑張れるということが、なんだか、とても、嬉しかった。
(雲長@瞼の上)
(ふたりでいきるということ)
二人分の参考書を広げれば、いっぱいになってしまうくらいの机。
「……うう」
「休憩するか?」
眉間に深く皺を刻んでうなり声を上げた花に、雲長は苦笑して声を掛けた。昼前にはじめて、休憩も挟まずに気付けばもう時計の針が二時間分進んでいた。
「……うん」
情けない顔で頷いた花に、コップに麦茶を注ぎ足して差し出す。両手でコップを受け取りちびちびと茶を飲む仕草が幼く、思わず小さく笑ってしまった。
「もう昼時だしな。なにか買ってくるか」
「ん、……簡単なのでよければ、作るよ」
趣味・料理の人に出すのは申し訳ないけど、と笑った顔は、すこし回復したように見える。この土日があければ期末の試験だ。二年次の最後の試験――進路選択にも係わってくるものだけに、花は随分根を詰めているようだった。
「今日は、親御さんはいないんだったか」
「うん。だから、私ので申し訳ないんだけど――」
「いや。なら、台所を借りてもいいか」
「え? それは、構わないけど」
驚いた顔をする花の頬を、軽く撫ぜる。
「疲れた顔をしている。……何か作ってくるから、すこし休んでいろ」
言って、立ち上がる。くれぐれも参考書など眺めているんじゃないぞ、と念を押して、階下の台所へと向かった。
* * *
勝手に食材を使ってしまうのは忍びなかったが、今日は両親とも遅くまで帰らないと聞いた。夕飯を作る際に買出しに行って、補充しておけば問題ないだろう。冷蔵庫の中を眺めながら、メニューを考える。温かいものがいいだろう、スープパスタでも作ろうか。
勝手の違う台所に戸惑いながらも、手早く調理を進めていく。
(……無理をするなとは、言えんな)
花の――疲れた顔を思い出しながら、小さく溜息をつく。彼女が何故ああも必死になっているのか、わからないではない。それをあまり、こちらに気取らせたくないと思っているのも。
進学。
あちらに居た長い期間から考えると、なんだかひどく違和感のある――けれどこちらの世界では、学生にとって人生を決めるといっても過言ではない問題だ。
広生はあちらの生が長いせいもあって、勉学など何処でもできるという感覚が強い。しかし、現実として、何を学びたいのか、それはどこで学べるのか、そのための学力が自分にあるのか、その手の問題は高校生である広生にもまた降りかかっている。
(彼女は、それに加えて)
広生は高い学力を有しており、学校でも最高学府の合格者候補と目されている。となれば自然、進学先は都内だと――少なくとも花は周りと同様にそう思っているのだろう。花自身の勉学への望みに加えて、恐らくは、広生とせめて近いところに行きたいという望みと、その二つを実現するために、少しでも学力を上げようと必死なのだ。
広生自身は、先程の通り――回りから求められる「合格」にも、また、進学先にも、さして拘りはない。けれどそれを告げたところで、彼女は怒るばかりだろう。そんな風に考えてはいけないと、諭されるに違いない。
だから広生に出来ることは、彼女の手助けをすることだけだ。学力的な面でも、それ以外でも。そして出来れば二人で、できるだけ多くの望みを叶えたい。
「……っと」
パスタの茹で時間をタイマーが告げて、慌てて火を止める。湯切りをして皿に盛り付け、スープをかける。ふうわりと、食欲をそそる香り。盆に並べて、スプーンとフォークを揃え、上へと向かった。
(俺は――彼女と生を共にすると、決めた)
(けれどそれだけでは、全てに足りて、全てに不足だ)
しかしてこう、悩みを共にすることもまた――ともに歩むと、言うことなのだろう。
* * *
「花、出来たぞ――花?」
部屋に入ると、参考書に伏して、花は寝息を立てていた。
眉が寄っている。そんなものを枕にしているからだろう、と溜息をついて、机に盆を置いて、花の身体を軽く揺らした。
「花、……ほら、食事が冷めるぞ」
「……ん」
う、と呻きに近い声を上げて、花が重たい瞼を開ける。こちらの顔を認めて、慌てて飛び起きた。
「わ、……っと、ごめん、寝てた」
「それは問題ないが、それを枕にするのはどうかと思うぞ。……どうせ忠告を聞かず、読んでいたのだろう」
「う」
図星だったのだろう。しゅんとした顔をする花の頭をまったく、と軽く叩くように撫ぜて、机の上の本を片付ける。皿を並べると、温かな香りに、花が僅かに頬を緩めた。
「……おいしそう」
「冷める前に食べるぞ。ほら」
カトラリーを差し出し、いただきます、と手を合わせる。花も慌てて手をあわせて、神妙にいただきます、と言った。しばらく、まだ熱いパスタをはふはふと無言で食べる。
「……おいしい。やっぱり料理上手だなぁ」
「そりゃあ、向こうでとはいえ、百年単位でやっていればな」
こちらでは色々と勝手も違うが、と返すと、尊敬の眼差しで見られた。
「私も練習しないとなぁ……料理も、教えてくれる?」
「ああ、幾らでも。……と言っても、来年以降の話になるだろうが」
「ん、そうだね」
来月に年度が替わり、それから一年――受験を無事終えるまでは。花はこくんと頷いて、パスタを啜った。
「……ほんとに、広生は、なんでもできて――すごいなぁ」
花が、ぽつりと――なんだか疲れたような声で、呟く。顔を上げると、花はどこか途方に暮れたような顔で、こちらを見ていた。子供のような顔だ。
「花、」
「私は――こっちでも、なんにもできない」
あっちでもこっちでも、教わってばかりだ、と。
かすかな笑みを浮かべた彼女は、ほんとうに、迷子の子供のような、不安げな目をしていた。
(何を、……言っているのか)
思わず、笑ってしまった。ゆっくりと不思議そうに目を瞬いた花を認めて、食器を僅かに横にずらし、花のほうへ身を乗り出した。
「……?」
「俺は長く――繰り返しただけだ。長いだけ、いろいろな事を知っているだけだ」
花の顔が、僅かに歪む。こちらの痛みを想うのだろう、と思えば、知らしめることは得策ではないとわかっていたが、彼女にはしっかりと、知っていてもらわねばならなかった。
「俺は――お前に、憧れてさえいるんだ」
「え、」
驚いた顔をする花の――唇ではなく、瞳の上、瞼へと、口付ける。反射で閉じられた瞼に、もう一度、柔らかく唇を落として。
「お前は、そうして――目的のために力を尽くすことを、知っている。それは強さだ。――俺が失ってしまっていた、強さだ」
囁くと、花の頬が僅かに染まった。恐る恐る開かれた目が、問う様にこちらを見上げる。
「私は……そんなこと、言ってもらえるようなことは、してないよ」
まだ惑う。身体を離して、食器も戻し、静かに答えた。
「お前と居ると、取り戻せる気がする。拙い言い方だが、……頑張れる気がするんだ」
「頑張れる、」
「ああ」
花の目を見つめて――笑う。
「一緒に、頑張ろう」
これから――長い日々を、共に歩むということ。
花はつられたように小さく笑って、頷いた。その表情を認めて、僅かに冷めてしまった食事の続きを再開する。すこし、安堵していた。
(俺が助けられたように、彼女を助けて)
(そうして、生きていくことが、出来る)
それは安らかで――とても優しい未来に見えた。二人でこうして食卓を囲むような、些細な幸せを積み重ねて、生きていくということ。そのために頑張れるということが、なんだか、とても、嬉しかった。
(雲長@瞼の上)
(ふたりでいきるということ)