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お前のモノじゃない、俺のモノでもない(玄徳)

「孔明、いいか」
「……玄徳さん? はい、今開けますね」
 扉を叩くと、軍師の間の抜けた声ではなく、弟子の方の声が聞こえた。献帝を長安に迎え入れて以来どこも慌しいが、この師弟も例外ではないらしい。ずっとぎこちない空気を宿していた花の声も、今回ばかりは昔と変わらず響いた。
(……この程度で嬉しいなんて、どうかしている)
 扉を開けてこちらを見た顔も、雑務に忙殺されているせいか、ただ疲れが目立つのみだ。
「孔明殿に相談したいことがあってな。……、花は」
 会えて嬉しい、と、素直に思う。けれど、孔明への用事は、けして彼女の前では語ることの出来ないものだった。ちらりと花に視線を投げた玄徳に、孔明もすぐに察したのだろう。花に三つほど巻物を渡すと、「これを雲長殿のところに」と、おつかいという名目を与えてくれた。
「……すまんな、気を使わせて」
 花が部屋を出て行くのを見届けてから、苦い溜息をつく。孔明は軽く肩を竦めて答えた。
「私とて、弟子の泣く顔は余り見たくないですから、例えあと僅かの期間と言ってもね」
「……」
 孔明は知っているのか、と。驚きが顔に出たのだろう。孔明はいつもの腹の読めない表情のまま、言葉を重ねる。
「花は、ボクが知っていることを、知らないでしょうが。……彼女の望みは叶った」
「……帝か」
 彼女は、過去で救うことの出来なかった献帝に、ひどく執心していた。あのような別れ方をすれば、仕方が無いのかと思う。しかしそれは、一度ならず二度までも、献帝を救えなかった自分の方が強い思いであるはずだった。
(……そのはずだった、のに)
 思いに沈む玄徳に孔明が向けた視線は、憐憫のようなものを含んでいた。孔明はもう一度肩を竦めると、「本題に入りましょうか、」と、玄徳の思考を打ち切った。
「奥様の件でしょう。奥様というのには、どうも抵抗がありますがね」
「……ああ。今回の件で、動くだろうか」
「動くでしょうね」
 献帝が玄徳、孟徳、仲謀にそれぞれ位を与えたことで、天下三分が成ったことになる。中原制覇を掲げる孟徳、仲謀にとって、いい結果であるとは言いがたい。天下三分がなったからこそ、こちらとの同盟を軽んじる動きが出てきても、可笑しくはない。
 ここで玄徳が倒れれば、三分の一角は瓦解する。天秤は容易く傾き、また、戦乱の時代が訪れるだろう。
「それも、早急に。安定してからでは、遅いですからね。警備の兵を増やしましょう。奥様を決して一人になさらぬよう」
「そうだな、どこに累が及ぶか判らん」
 あくまで狙いは玄徳ではあるが、城に馴染んだ偽の花嫁がどんな手段に出るかはわからない。人質を取る可能性もある。その場合真っ先に狙われるのは、無論、力を持たない彼女だろう。
「……そう考えると、彼女は、はやく帰った方がいいのかもしれませんね」
 孔明も同じ思考に至ったのだろう。淡々と語る声に弟子を案じる色は余り浮かんではいなかったが、彼が誰よりも彼女を大切にしていることは、少し見ていれば容易に知れる。
「……そうだな」
 彼女の身を考えれば、同意するしかない言葉だ。しかし、知略を誇る玄徳軍の軍師は、滲む苦さを見逃してはくれなかった。
「帰したく、ないですか」
「……」
 頷くことは、できなかった。けれど、沈黙は肯定だった。孔明は彼にしては珍しい優しい笑みを浮かべて、玄徳を見た。
「玄徳様。……弟子を泣かせたら、許しませんよ」
「……まるで、彼女の保護者のようなことを言うんだな」
「ええ、保護者のようなものですから」
「随分と放っておいたくせに。……彼女は、お前のモノでも、俺のモノでも、ないだろう」
 彼女は、いずれ帰る、彼女の世界のモノだ。
 玄徳は小さく呟いた。彼女を危ない状況に置いておきたくはない。彼女に幸せになってほしい。彼女に、笑っていて欲しい――その全てが、玄徳の傍では叶わず、彼女の世界では叶うだろう。そう、随分と、彼女の笑顔を見ていない――改めてそんなことに気がついて、玄徳はもう、自分には彼女のなにを望むことすら許されていないのだ、と、苦笑した。


 * * *

 玄徳が沈んだ様子で立ち去るのを見送って、孔明は身体を伸ばした。
 花が戻ってくるまで、あと数刻はあるだろう。聡い彼女は、自分が追い出されたことに気付いたはずだ。そして恐らくは、自分が玄徳に嫌われているという誤解でまた、身動きが取れなくなっている。
「……彼女の望み、か」
 玄徳は、帝、と言った。それは、間違いではないだろう。けれど同時に、どうしようもない誤解でもある。
 彼女の本が無ければ、玄徳は恐らく、命を落としていたのだろう。彼女の望みはなによりも、その未来を変えることにあった。
「……絶対に、教えたりはしないけど」
 だって玄徳は、きっと、彼女を泣かせるから。
 だからその代償にもっと、もっともっと、悩めばいい。

 彼女はボクのモノではない。そんなこと、思えばあの遠い昔から、わかりきっていたことだったのだ。

 扉を叩く控えめな音で、孔明は顔にいつもの余裕を貼り付けた。
 彼女の顔は、暗く沈んでいるだろう。孔明に出来ることは、たくさんの仕事で、その陰りを忙殺してしまうことだけだった。

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