姫金魚草
三国恋戦記中心、三国志関連二次創作サイト
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黒い羊 (雲長)
広生は、いつも、時間よりはやく待ち合わせの場所にいる。
本に視線を落としていた彼が、花に気付いて顔を上げる。
その瞬間の、どこかやわらかく細められる目が、好きだ。
「ごめん、待ったかな」
「いや。すこしはやく来すぎた」
行こうか、と、自然と手が伸ばされる。手を重ねて、軽く握る。
タイミングがわかる、と思う。広生の呼吸と、呼吸が合っているような気がする。
「今日は、春物を見るんだったか」
「うん、ちょっとお小遣い貰って来ちゃった。この間のテストがよかったからって、お母さんが」
広生のお陰だよ、と笑う。彼は高い学力を有している上、教えるのが上手い。広生に勉強を教わるようになってから、花の成績は眼に見えて向上した。お陰で、花の母親の広生に対する覚えはとてもめでたい。
「それは、お前が頑張ったからだろう。よかったな」
手が離れて、頭を撫でられた。
「……また、子ども扱いして」
「、……そうかな?」
「そうだよー」
わざとらしくむくれて見せると、困ったように笑われた。「そういうところは、子供だろう」……彼は、あいかわらず辛辣なことを言う。
* * *
春の店先は、華やかな色に溢れている。
花は、二つのワンピースを見比べて真剣な面持ちをしていた。華奢な彼女には右の、ふわりとしたラインの華やかな色のものが似合うと思うが、それは、訊ねられてから答えればいいことだ。真面目な顔をした彼女も微笑ましいから、しばらく眺めていようと思う。
(……、……華やかな服、か)
自然、浮かんでくるのは、芙蓉姫の手によって着飾らされた宴会での花の姿である。
髪を上げ、僅かに化粧を施した彼女は、はっとするほどに艶やかに見えた。
(……もっと、)
(着飾らせれば良かったかもしれないな)
今となっては詮無い思いだが――あの頃であれば好きなように彼女を飾ることが出来たと思うと、なんだか勿体無いことをしてしまったような気がする。あのように豪奢な仕掛けを羽織ることなど、こちらの世界ではそう無いことだ。
(あの日々のことを――こんな風に、考える日が来るだなんて)
こんな風に、懐かしい、柔らかな思い出として、思い出す日が来るだなんて。
「……ね、どっちがいいかな」
「ん?」
掛けられた声に、我に返る。先程の二着を両腕に下げている。
「そうだな……俺は、こちらのほうが好きだが」
「こっち、」
花はこっちか、とまた難しい顔をしてから、ふと顔を上げた。
「?」
「そうだ。この色、何かに似てると思ってたんだけど。あの時の着物に似てるんだ」
「……」
あのとき。
それは、広生が思い出していたのと、同じものだろう。そういえばそうだ、と、先程の思考に納得したような気分になる。
「うん、じゃあ、こっちにしよう」
心を決めたらしく、一つを戻し、一つをレジへ持っていく。あの時の彼女も可愛らしかったけれど、恐らくその服を着た彼女も可愛らしいだろう。次にこうして逢うときに着てくれるといいのだが。
(……ああ、)
(平和な思考だ)
お待たせ、と笑う花に笑い返して、なんだか複雑な――幸せなような、後ろめたいような、そんな気分になった。
* * *
広生が、足を止めた。
「?」
それは――ファンシーショップの前だった。可愛らしい、色々な動物を模したぬいぐるみが、所狭しと並べられている。
(……なんか、シュールだなぁ)
「どうしたの?」
「いや、」
「あ、その羊、かわいい」
白と黒の羊のぬいぐるみが並んでいる。黒い羊の方が数が少ないように見える。
広生とぬいぐるみの取り合わせに違和感を覚えたのは一瞬で、直ぐにぬいぐるみのほうに意識が惹かれた。黒い羊を手にとり、ふと、広生の顔の辺りに掲げてみる。
「……、なんだ、いきなり」
「なんか、似てるね」
その羊はすこし拗ねたような、つまらなそうな細い目をしている。それなのにすこし寂しそうに見えるところが、似ている……と、言ったらそれこそ拗ねられてしまいそうだけれど。
「あまり褒められている気がしないな」
「……」
ばれましたか。
「でも、かわいいでしょ」
「それは、そうだが」
広生は複雑そうに眉を寄せている。花は、余り頓着せずに、他のぬいぐるみに目をうつした。
* * *
「なんか、似てるね」
言われたときに、考えを読まれたのかと思った。
けれど、どこか含みはあるものの、ただ楽しげに笑う顔に、そうではないのだと知れる。
(……黒い羊)
たしかに広生は、それが、自分に似ている気がして、足を止めたのだ。
黒い羊。
白い羊の群れにいる、異端児。
黒い毛は染めることが出来ないから、役にも立たない、厄介者。
昔聞いた、そんな話を――ふと、思い出したからだ。
(自分が黒い羊であるような気がして、この世界から逃げて)
(その先でも結局、俺は、黒い羊だったのだ)
苦く、思う。
そうして戻ってきた世界で――俺は正しく、呼吸できているだろうか。
(そうして置いてきた世界は――俺の居ない世界は、正しい世界へと、戻っただろうか)
ぬいぐるみを前に無邪気に笑う花の傍で、こんなことを考えている自分は、もしかしたらまだ黒い羊なのかもしれない。そんな風に内心苦笑したときに、花が手にトラ猫と黒犬のぬいぐるみを掲げて、こちらを見た。
「じゃあ、これが翼徳さんで、こっちが玄徳さんだね」
こっちの猫、かぱって開いた口がそっくり。こっちの犬は、優しくて頼りになりそうだし。
楽しげに笑う彼女は、ごく近しいものを語る時の口調で、優しく言葉を紡ぐ。
思わず――目を、瞬いた。
(黒い羊と、……トラ猫と、黒犬か)
「……それは、随分、弱そうな軍だな」
「そういう感想、どうかと思う」
軍じゃないし、と憤慨したように頬を膨らませる。
「だが、たしかにこうして並べてみると、それらしいな」
三匹並べて掲げると、なんだか確かに似ている気がしてくるから不思議なものだ。
「でしょ? ……って、そんなこと言ったら欲しくなるよ」
三匹は無理、と、値札を眺めて溜息をつく。丁寧に三匹とも棚に戻して、また今度ね、と真面目な顔で言った。
(羊と、猫と、犬)
(……黒い羊は、なにも、外れてはいないのか)
ふと、ぬいぐるみと目が合うというのも、奇妙だが――目が、あったような気がした。細い目は、どこかひとをからかうような色をしていた。
そんなに世界は狭くないのだと、笑われたような、気がした。
「? ……欲しいの?」
「いや、」
一匹だけ連れて行くのは、かわいそうだろう。
言うと、花は――困ったように笑った。手をとられる。慌てて、そういう意味じゃない、と言おうとして、必要ないと思いなおした。
「……俺は、一人ではないしな」
「何も言ってないよ」
「わかってる」
ここでも、彼の地でも、一人などではなかった。
(そんなことも、直ぐ忘れてしまう)
(――彼女が居ないと、直ぐに)
苦笑と共に、強く手を握った。自分は黒い羊かもしれないけれど、黒い羊は、想われていた。忘れないように、刻み込むように、――強く、握った。
(雲長@本の中のイメージソング…炉心融解、もしくはBLACK SHEEP)
(「僕のいない朝は 今よりずっと素晴らしくて 全ての歯車が噛み合った」)
(「僕が出ていったあと 街に平和が戻った 随分長い間 楽しかった 夢を見てた もう帰らない」)
(雲長はやっぱり、帰ってきてからもたまにうじうじするけど、なんとなく花ちゃんに救われるといいな、というはなし。)
本に視線を落としていた彼が、花に気付いて顔を上げる。
その瞬間の、どこかやわらかく細められる目が、好きだ。
「ごめん、待ったかな」
「いや。すこしはやく来すぎた」
行こうか、と、自然と手が伸ばされる。手を重ねて、軽く握る。
タイミングがわかる、と思う。広生の呼吸と、呼吸が合っているような気がする。
「今日は、春物を見るんだったか」
「うん、ちょっとお小遣い貰って来ちゃった。この間のテストがよかったからって、お母さんが」
広生のお陰だよ、と笑う。彼は高い学力を有している上、教えるのが上手い。広生に勉強を教わるようになってから、花の成績は眼に見えて向上した。お陰で、花の母親の広生に対する覚えはとてもめでたい。
「それは、お前が頑張ったからだろう。よかったな」
手が離れて、頭を撫でられた。
「……また、子ども扱いして」
「、……そうかな?」
「そうだよー」
わざとらしくむくれて見せると、困ったように笑われた。「そういうところは、子供だろう」……彼は、あいかわらず辛辣なことを言う。
* * *
春の店先は、華やかな色に溢れている。
花は、二つのワンピースを見比べて真剣な面持ちをしていた。華奢な彼女には右の、ふわりとしたラインの華やかな色のものが似合うと思うが、それは、訊ねられてから答えればいいことだ。真面目な顔をした彼女も微笑ましいから、しばらく眺めていようと思う。
(……、……華やかな服、か)
自然、浮かんでくるのは、芙蓉姫の手によって着飾らされた宴会での花の姿である。
髪を上げ、僅かに化粧を施した彼女は、はっとするほどに艶やかに見えた。
(……もっと、)
(着飾らせれば良かったかもしれないな)
今となっては詮無い思いだが――あの頃であれば好きなように彼女を飾ることが出来たと思うと、なんだか勿体無いことをしてしまったような気がする。あのように豪奢な仕掛けを羽織ることなど、こちらの世界ではそう無いことだ。
(あの日々のことを――こんな風に、考える日が来るだなんて)
こんな風に、懐かしい、柔らかな思い出として、思い出す日が来るだなんて。
「……ね、どっちがいいかな」
「ん?」
掛けられた声に、我に返る。先程の二着を両腕に下げている。
「そうだな……俺は、こちらのほうが好きだが」
「こっち、」
花はこっちか、とまた難しい顔をしてから、ふと顔を上げた。
「?」
「そうだ。この色、何かに似てると思ってたんだけど。あの時の着物に似てるんだ」
「……」
あのとき。
それは、広生が思い出していたのと、同じものだろう。そういえばそうだ、と、先程の思考に納得したような気分になる。
「うん、じゃあ、こっちにしよう」
心を決めたらしく、一つを戻し、一つをレジへ持っていく。あの時の彼女も可愛らしかったけれど、恐らくその服を着た彼女も可愛らしいだろう。次にこうして逢うときに着てくれるといいのだが。
(……ああ、)
(平和な思考だ)
お待たせ、と笑う花に笑い返して、なんだか複雑な――幸せなような、後ろめたいような、そんな気分になった。
* * *
広生が、足を止めた。
「?」
それは――ファンシーショップの前だった。可愛らしい、色々な動物を模したぬいぐるみが、所狭しと並べられている。
(……なんか、シュールだなぁ)
「どうしたの?」
「いや、」
「あ、その羊、かわいい」
白と黒の羊のぬいぐるみが並んでいる。黒い羊の方が数が少ないように見える。
広生とぬいぐるみの取り合わせに違和感を覚えたのは一瞬で、直ぐにぬいぐるみのほうに意識が惹かれた。黒い羊を手にとり、ふと、広生の顔の辺りに掲げてみる。
「……、なんだ、いきなり」
「なんか、似てるね」
その羊はすこし拗ねたような、つまらなそうな細い目をしている。それなのにすこし寂しそうに見えるところが、似ている……と、言ったらそれこそ拗ねられてしまいそうだけれど。
「あまり褒められている気がしないな」
「……」
ばれましたか。
「でも、かわいいでしょ」
「それは、そうだが」
広生は複雑そうに眉を寄せている。花は、余り頓着せずに、他のぬいぐるみに目をうつした。
* * *
「なんか、似てるね」
言われたときに、考えを読まれたのかと思った。
けれど、どこか含みはあるものの、ただ楽しげに笑う顔に、そうではないのだと知れる。
(……黒い羊)
たしかに広生は、それが、自分に似ている気がして、足を止めたのだ。
黒い羊。
白い羊の群れにいる、異端児。
黒い毛は染めることが出来ないから、役にも立たない、厄介者。
昔聞いた、そんな話を――ふと、思い出したからだ。
(自分が黒い羊であるような気がして、この世界から逃げて)
(その先でも結局、俺は、黒い羊だったのだ)
苦く、思う。
そうして戻ってきた世界で――俺は正しく、呼吸できているだろうか。
(そうして置いてきた世界は――俺の居ない世界は、正しい世界へと、戻っただろうか)
ぬいぐるみを前に無邪気に笑う花の傍で、こんなことを考えている自分は、もしかしたらまだ黒い羊なのかもしれない。そんな風に内心苦笑したときに、花が手にトラ猫と黒犬のぬいぐるみを掲げて、こちらを見た。
「じゃあ、これが翼徳さんで、こっちが玄徳さんだね」
こっちの猫、かぱって開いた口がそっくり。こっちの犬は、優しくて頼りになりそうだし。
楽しげに笑う彼女は、ごく近しいものを語る時の口調で、優しく言葉を紡ぐ。
思わず――目を、瞬いた。
(黒い羊と、……トラ猫と、黒犬か)
「……それは、随分、弱そうな軍だな」
「そういう感想、どうかと思う」
軍じゃないし、と憤慨したように頬を膨らませる。
「だが、たしかにこうして並べてみると、それらしいな」
三匹並べて掲げると、なんだか確かに似ている気がしてくるから不思議なものだ。
「でしょ? ……って、そんなこと言ったら欲しくなるよ」
三匹は無理、と、値札を眺めて溜息をつく。丁寧に三匹とも棚に戻して、また今度ね、と真面目な顔で言った。
(羊と、猫と、犬)
(……黒い羊は、なにも、外れてはいないのか)
ふと、ぬいぐるみと目が合うというのも、奇妙だが――目が、あったような気がした。細い目は、どこかひとをからかうような色をしていた。
そんなに世界は狭くないのだと、笑われたような、気がした。
「? ……欲しいの?」
「いや、」
一匹だけ連れて行くのは、かわいそうだろう。
言うと、花は――困ったように笑った。手をとられる。慌てて、そういう意味じゃない、と言おうとして、必要ないと思いなおした。
「……俺は、一人ではないしな」
「何も言ってないよ」
「わかってる」
ここでも、彼の地でも、一人などではなかった。
(そんなことも、直ぐ忘れてしまう)
(――彼女が居ないと、直ぐに)
苦笑と共に、強く手を握った。自分は黒い羊かもしれないけれど、黒い羊は、想われていた。忘れないように、刻み込むように、――強く、握った。
(雲長@本の中のイメージソング…炉心融解、もしくはBLACK SHEEP)
(「僕のいない朝は 今よりずっと素晴らしくて 全ての歯車が噛み合った」)
(「僕が出ていったあと 街に平和が戻った 随分長い間 楽しかった 夢を見てた もう帰らない」)
(雲長はやっぱり、帰ってきてからもたまにうじうじするけど、なんとなく花ちゃんに救われるといいな、というはなし。)
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「曹孟徳は、人が、好きなのだ」 (雑記と拍手レス)
(↑宮城谷三国志より)
今更宮城谷三国志を読み返しています。続きはまだかー。
ほんと宮城谷の曹操は格好いいよなあ……。
「曹孟徳は、信ずる人であった。疑えば、人は離れていく」
「曹孟徳は、人が、好きなのだ。人を、活かしたいのだ」
まるで赤い人とは違う人物像ですが。
奸雄だけあって悪名高い曹操ですが、実際こういう一面もあったと思います。蒼天も、「曹操は人に興味を持った英雄である」みたいなくだりからはじまりますしね。
三国志オタってほど詳しくないですが。
恋戦記で知った人も、三国志を知ると、新たな萌が得られるのではないかと思います(←不純)
最初に宮城谷は難しいかもしれませんが。個人的には蒼天か北方がおすすめです。どっちも魏が格好いいので(←魏民)
しかしほんと、宮城谷の徐州のくだりの魏軍は燃えるな……(←変換間違いではありません。)
続きは拍手レスですー
今更宮城谷三国志を読み返しています。続きはまだかー。
ほんと宮城谷の曹操は格好いいよなあ……。
「曹孟徳は、信ずる人であった。疑えば、人は離れていく」
「曹孟徳は、人が、好きなのだ。人を、活かしたいのだ」
まるで赤い人とは違う人物像ですが。
奸雄だけあって悪名高い曹操ですが、実際こういう一面もあったと思います。蒼天も、「曹操は人に興味を持った英雄である」みたいなくだりからはじまりますしね。
三国志オタってほど詳しくないですが。
恋戦記で知った人も、三国志を知ると、新たな萌が得られるのではないかと思います(←不純)
最初に宮城谷は難しいかもしれませんが。個人的には蒼天か北方がおすすめです。どっちも魏が格好いいので(←魏民)
しかしほんと、宮城谷の徐州のくだりの魏軍は燃えるな……(←変換間違いではありません。)
続きは拍手レスですー
06 一瞬だけでもかまわない
なんだか笑いだしてしまいそうだった。
腹を据えたら、世界が輝いた。
どのようにでもしてやれる。
巡り巡った世界が、花の希みを叶えるだろう。
「……ごめん。話があるんだけど、いいかな」
孟徳の控えめな声を聞き、慌てて取り繕わなければならないほどに。
たしかに。
たしかに花は、笑っていた。
* * *
孟徳の言葉は予想の範囲内だった。
寧ろ、今更、と思わせる類の提案。
(しかし、今更ということは、……これは、彼の意思ではないだろう)
「例の、異邦の方が?」
それは寧ろ確認だった。
「なんで、そう思うのかな」
「なんとなく、です」
否定も肯定もしない言葉に確信する。あの男が動いたのだろう。
最高のタイミングだ。茶を淹れる動きで言葉を焦らぬように選びながら、訊ねた。
「その方と、お話しすることは可能でしょうか」
まずは彼に会わねば。
物語を変えることの出来る唯一の存在。この世界の、不確定要素。
彼に会わねば、何もはじまりはしない。
「……俺の前で他の男に会いたいだなんて、言わないでほしいなぁ」
「御戯れを」
どうしても、気が逸る。孟徳の戯言はいつものことなのに、上手く笑えているだろうか。
旅が長いからと偽りは、彼には悟られてしまうだろうか。
「彼は俺の臣下じゃないからね。命令は出来ないよ」
「彼に、私が話したがっていたと、伝えていただければ充分です」
魏に仕え、孟徳への献策を試みる男が、三国志に無知であるとは思えない。諸葛孔明の三国志という物語における知名度は、例え魏に何かを望む男にとっても、効力を発揮するだろう。
「……随分な自信だね?」
「ええ」
これは違うか――自信とは、似て非なるものだ。
「彼が私の知人に似ている限り――彼は、私に興味を持つでしょうから」
(私に――否、諸葛孔明に)
だからこそ、後ろめたくもあるが、胸を張ることも出来るのだ。
「ふぅん。そんな風に言って」
「……?」
孟徳は、なにか面白くなさそうに目を眇めた。なにが気に障ったのかわからず、首を傾げる。
彼の機嫌を損ねては駄目だ。内心で、僅かに焦る。
孟徳は――少し拗ねたような口調で、続けた。
「俺の前でそんな風に言って――俺がわざと、彼と君を会わせないとは、思わないの?」
「……」
驚いた。
というより、拍子抜けした、と言う方が正しいかもしれない。花は、自分が気を張りすぎていたことに気がついた。
(私にとって、あの男に会うことは、なくてはならないことだけれど)
(彼には――曹孟徳には、その理由を察することは、不可能だ)
ばれないように、息を吐いて――笑う。
(しっかりしろ、)
(妙に気負っていたら、怪しまれる)
「そちらの自信は、残念ながら。それでなくても、丞相はそのように狭量な方ではないでしょう」
「そっちの自信も持っていいよ」
「御戯れを」
大丈夫、何時もの軽口だ。疑われていないうちは、この程度の願いなら、気紛れな孟徳は叶えてくれるだろう。小さく笑うと、彼は仕方ないな、と言いたげに笑って、一口、もう冷めただろう茶を口に運んだ。
そういえば、彼は躊躇わないな、と、思った。
此処で何かを口に入れることを、躊躇わない。
その意味を考えることは、今は無為だ。思ったところで、孟徳が、ほんの少し、歪んで見える笑顔を浮かべた。
「? ……何、を」
「いや、……そうだ」
孟徳の目が、花の目を捉えた。彼の方が余程、何もかも見透かす目をしている、と、僅かひるんだところで、彼は歪んだ笑みのまま、問いを呟いた。
「ねぇ。……玄徳の手のものが、君を迎えに来たらどうする?」
驚いた、のは。問い自体には勿論だけれど、その声音の、あからさまなひずみに、だった。
(なんて、)
(なんて、ひどい問いだ)
答えが一つしか許されず、それを双方が承知している問いは、どんな問いであっても、暴力的で残酷だ。
花に護衛をつけると言って――花を逃がさないと暗に言って、それから数刻も経たないうちに、こんなことを問う、だなんて。
(これじゃあ、)
(何を言っても、それは、用意された答えになってしまう)
逃げない、と言っても。
それは、逃げられないから、に、なってしまう。
(それでも彼は、私に、逃げないと言わせたい?)
(それとも、……彼は、傷付きたいとでも、言うのだろうか)
考えが巡るのは、一つの瞬きの間に留めた。それを過ぎれは、疑いを招く。
「どうするも、……急いで逃げろと、いいますね」
ならば、それに乗ろう。なるべく嘘をつかずに、なるべく彼が、信じるように。
「え」
「この状況では、私を連れて此処を出るのは、少しばかり不可能の度合いが高いかと」
「……帰らないの」
思わず唇が上がった。言えると思っても居ないくせに。言って欲しかったのなら、自虐が過ぎる。
彼は私が帰りたがっていると思っている。あたりまえだけれど、それは、愚かだ。
「そんなことをしたら、……丞相、あなたが怒るでしょう」
もう、逃げるつもりなど何処にも無い。だから最後は、からかうように付け加えた。先程彼が、そこも自信を持てと言ったから、思っても居ないことを。
けれどどうやら真意は、伝わらなかったらしい。どこか呆然とした男は、想定外の言葉を吐いた。
「……そうだね、徐州の二の舞は、嫌だもんね」
「……!」
彼が、何を思ってそう返したかは、わからない。けれどそれは、了承できない言葉だった。
そんなつもりで言ったととられるのは、困る。
「その言い方は、誤解されます」
思わず、語気が強くなった。
私が、徐州のことを――曹孟徳の残虐さを現している、と、思っているだなんて、思わないで欲しい。
一瞬、視線が彼の左手に――火傷跡に、流れた。気付いただろうか。
(彼は、戒めと言った)
(――何をかは、聞けなかった、けれど)
「私は、知ってるんですよ」
徐州牧陶恭祖は、彼の父親を殺した。この時代――花の感覚では、現代の感覚では理解することは容易くないけれど、この時代、父祖の復讐は、正義だ。彼が怒りのままに軍を動かしたことに違いは無いが――それは、決して、大義のない戦ではない。
彼はもう、徐州のようなことは、行わないだろう。
女一人のために兵を動かすような暗愚ではないし、理由無く虐殺を行うような悪逆の徒でもない。
そんなことも知らないだなんて、思われては、困る。
(それに)
(彼はもう――報いを、受けた)
「……なんでも?」
訊ねる孟徳は、子供のような目をしていた。
教えを請う童子のような。
「私が知る限りのことは」
人は己の知るところしか知らない。
私は少し――四回分、ひとよりそれが多いだけだ。
「君は、何を知っているんだろうなぁ……」
溜息をつくように、孟徳が笑った。なにも、と、内心で答える。
「……彼の件、よろしくおねがいしますね」
「はいはい」
ゆっくり、笑みを作った。
花の手は、物語に触れることは、許されていない、けれど。
(あの男を――本の主を。唯一の不確定要素を)
(あの男を通してなら、触れられる)
もう、決めたのだ。
花は孟徳を見つめた。曹孟徳。乱世の奸雄。
楽しそうに笑って、ふらりふらりと生きているようで、子供のような顔をして、嘘が嫌いで、――なんの、目的も無い。
(このひととき、だけでいい)
(擦り切れるような長い時間の、ほんの一瞬で構わない)
曹孟徳、この男と、生きたい。
曹孟徳、この男に、その人生に――触れたい。
(繰り返した生が、このためにあったが如く)
腹を据えたら、世界が輝いた。
どのようにでもしてやれる。
巡り巡った世界が、花の希みを叶えるだろう。
「……ごめん。話があるんだけど、いいかな」
孟徳の控えめな声を聞き、慌てて取り繕わなければならないほどに。
たしかに。
たしかに花は、笑っていた。
* * *
孟徳の言葉は予想の範囲内だった。
寧ろ、今更、と思わせる類の提案。
(しかし、今更ということは、……これは、彼の意思ではないだろう)
「例の、異邦の方が?」
それは寧ろ確認だった。
「なんで、そう思うのかな」
「なんとなく、です」
否定も肯定もしない言葉に確信する。あの男が動いたのだろう。
最高のタイミングだ。茶を淹れる動きで言葉を焦らぬように選びながら、訊ねた。
「その方と、お話しすることは可能でしょうか」
まずは彼に会わねば。
物語を変えることの出来る唯一の存在。この世界の、不確定要素。
彼に会わねば、何もはじまりはしない。
「……俺の前で他の男に会いたいだなんて、言わないでほしいなぁ」
「御戯れを」
どうしても、気が逸る。孟徳の戯言はいつものことなのに、上手く笑えているだろうか。
旅が長いからと偽りは、彼には悟られてしまうだろうか。
「彼は俺の臣下じゃないからね。命令は出来ないよ」
「彼に、私が話したがっていたと、伝えていただければ充分です」
魏に仕え、孟徳への献策を試みる男が、三国志に無知であるとは思えない。諸葛孔明の三国志という物語における知名度は、例え魏に何かを望む男にとっても、効力を発揮するだろう。
「……随分な自信だね?」
「ええ」
これは違うか――自信とは、似て非なるものだ。
「彼が私の知人に似ている限り――彼は、私に興味を持つでしょうから」
(私に――否、諸葛孔明に)
だからこそ、後ろめたくもあるが、胸を張ることも出来るのだ。
「ふぅん。そんな風に言って」
「……?」
孟徳は、なにか面白くなさそうに目を眇めた。なにが気に障ったのかわからず、首を傾げる。
彼の機嫌を損ねては駄目だ。内心で、僅かに焦る。
孟徳は――少し拗ねたような口調で、続けた。
「俺の前でそんな風に言って――俺がわざと、彼と君を会わせないとは、思わないの?」
「……」
驚いた。
というより、拍子抜けした、と言う方が正しいかもしれない。花は、自分が気を張りすぎていたことに気がついた。
(私にとって、あの男に会うことは、なくてはならないことだけれど)
(彼には――曹孟徳には、その理由を察することは、不可能だ)
ばれないように、息を吐いて――笑う。
(しっかりしろ、)
(妙に気負っていたら、怪しまれる)
「そちらの自信は、残念ながら。それでなくても、丞相はそのように狭量な方ではないでしょう」
「そっちの自信も持っていいよ」
「御戯れを」
大丈夫、何時もの軽口だ。疑われていないうちは、この程度の願いなら、気紛れな孟徳は叶えてくれるだろう。小さく笑うと、彼は仕方ないな、と言いたげに笑って、一口、もう冷めただろう茶を口に運んだ。
そういえば、彼は躊躇わないな、と、思った。
此処で何かを口に入れることを、躊躇わない。
その意味を考えることは、今は無為だ。思ったところで、孟徳が、ほんの少し、歪んで見える笑顔を浮かべた。
「? ……何、を」
「いや、……そうだ」
孟徳の目が、花の目を捉えた。彼の方が余程、何もかも見透かす目をしている、と、僅かひるんだところで、彼は歪んだ笑みのまま、問いを呟いた。
「ねぇ。……玄徳の手のものが、君を迎えに来たらどうする?」
驚いた、のは。問い自体には勿論だけれど、その声音の、あからさまなひずみに、だった。
(なんて、)
(なんて、ひどい問いだ)
答えが一つしか許されず、それを双方が承知している問いは、どんな問いであっても、暴力的で残酷だ。
花に護衛をつけると言って――花を逃がさないと暗に言って、それから数刻も経たないうちに、こんなことを問う、だなんて。
(これじゃあ、)
(何を言っても、それは、用意された答えになってしまう)
逃げない、と言っても。
それは、逃げられないから、に、なってしまう。
(それでも彼は、私に、逃げないと言わせたい?)
(それとも、……彼は、傷付きたいとでも、言うのだろうか)
考えが巡るのは、一つの瞬きの間に留めた。それを過ぎれは、疑いを招く。
「どうするも、……急いで逃げろと、いいますね」
ならば、それに乗ろう。なるべく嘘をつかずに、なるべく彼が、信じるように。
「え」
「この状況では、私を連れて此処を出るのは、少しばかり不可能の度合いが高いかと」
「……帰らないの」
思わず唇が上がった。言えると思っても居ないくせに。言って欲しかったのなら、自虐が過ぎる。
彼は私が帰りたがっていると思っている。あたりまえだけれど、それは、愚かだ。
「そんなことをしたら、……丞相、あなたが怒るでしょう」
もう、逃げるつもりなど何処にも無い。だから最後は、からかうように付け加えた。先程彼が、そこも自信を持てと言ったから、思っても居ないことを。
けれどどうやら真意は、伝わらなかったらしい。どこか呆然とした男は、想定外の言葉を吐いた。
「……そうだね、徐州の二の舞は、嫌だもんね」
「……!」
彼が、何を思ってそう返したかは、わからない。けれどそれは、了承できない言葉だった。
そんなつもりで言ったととられるのは、困る。
「その言い方は、誤解されます」
思わず、語気が強くなった。
私が、徐州のことを――曹孟徳の残虐さを現している、と、思っているだなんて、思わないで欲しい。
一瞬、視線が彼の左手に――火傷跡に、流れた。気付いただろうか。
(彼は、戒めと言った)
(――何をかは、聞けなかった、けれど)
「私は、知ってるんですよ」
徐州牧陶恭祖は、彼の父親を殺した。この時代――花の感覚では、現代の感覚では理解することは容易くないけれど、この時代、父祖の復讐は、正義だ。彼が怒りのままに軍を動かしたことに違いは無いが――それは、決して、大義のない戦ではない。
彼はもう、徐州のようなことは、行わないだろう。
女一人のために兵を動かすような暗愚ではないし、理由無く虐殺を行うような悪逆の徒でもない。
そんなことも知らないだなんて、思われては、困る。
(それに)
(彼はもう――報いを、受けた)
「……なんでも?」
訊ねる孟徳は、子供のような目をしていた。
教えを請う童子のような。
「私が知る限りのことは」
人は己の知るところしか知らない。
私は少し――四回分、ひとよりそれが多いだけだ。
「君は、何を知っているんだろうなぁ……」
溜息をつくように、孟徳が笑った。なにも、と、内心で答える。
「……彼の件、よろしくおねがいしますね」
「はいはい」
ゆっくり、笑みを作った。
花の手は、物語に触れることは、許されていない、けれど。
(あの男を――本の主を。唯一の不確定要素を)
(あの男を通してなら、触れられる)
もう、決めたのだ。
花は孟徳を見つめた。曹孟徳。乱世の奸雄。
楽しそうに笑って、ふらりふらりと生きているようで、子供のような顔をして、嘘が嫌いで、――なんの、目的も無い。
(このひととき、だけでいい)
(擦り切れるような長い時間の、ほんの一瞬で構わない)
曹孟徳、この男と、生きたい。
曹孟徳、この男に、その人生に――触れたい。
(繰り返した生が、このためにあったが如く)
05 「だってあなたは怒るでしょう?」
「丞相、どうしてもお聞き届けいただけませんか」
「無理して丞相なんて言わなくていいよ。……女の子を閉じ込めるのは、どうもなぁ」
ぴくり、と男の眉が動いた。この男は時折、こんな顔をする。苛立っているような、失望しているような、それを必死で見せまいとしているような表情だ。
この男は使える。けれど、この顔がどうも、ひっかかる。
「別に牢でなくても良いのです、せめてもっと奥……若しくは、丞相の後宮でも構いません。しかし、今の場所では、危険です」
「危険、ね。彼女には策知がある。奥にやるほうが危なくないかなぁ。宮の女を篭絡されて暗殺されるとか、困るし」
「御戯れを、……孔明の知は、玄徳軍にとって必要不可欠です。どんな手を使ってでも、取り返しに来ます」
「そうかな。……玄徳が、流浪の軍で終わるつもりなら、徳と義だけを抱くならば、彼女の知など不用だろう」
「……」
また、あの顔だ。
彼は少なくとも、信用できる。
彼には不思議な才知がある。それは、彼女に――孔明に感じるものと、同じ類の才知だ。孟徳の知りうる範囲を超えた何か。
「だとしても。……義を唱える玄徳が孔明を見捨てるなど、それこそありえぬ話でしょう。せめて、彼女の部屋に見張りを。できれば、窓にも夜番を置いてください」
「……」
彼は随分と、この話に固執する。彼女を捕らえてからずっと、繰り返し、この男は唱えている。殺すか、出来ぬのならば深く捕らえよ、と。
(この男の目的のためには、随分と、彼女が――諸葛孔明が邪魔らしい)
孟徳は根負けするような形で溜息をついた。
「……わかった。扉に見張りを。外に番を。それでいいんだろう」
「……」
お分かりいただけて何よりです、と、男は、ほっとしたように息をついた。彼は何か、確かめるようにこちらを見た。彼の瞳は黒々としていて――深い海のようにも、薄い紙のようにも見える。
彼は信用できるが、――とても、信頼は、できない。
そもそも誰をも信頼するつもりは無いが――孟徳は彼の、どこか冷たい瞳を見て、その思いを新たにしたのだった。
* * *
「護衛、ですか」
「うん。……君は他国の軍師だし、いくら俺のお気に入りって言っても、暴走する輩が出てこないとは限らないからね。窮屈かもしれないけど、我慢してくれないかな」
孔明は、薄く笑った。何もかも見通していると言いたげな透明な瞳が、こちらを見上げる。
ああ、彼女は――たしかに、小さな女の子などではない。
それは歳の話ではなくて、彼女は確かに、伏龍と称されし奇才なのだった。
「例の、異邦の方が?」
「……なんでそう思うのかな」
「なんとなくですけど」
彼女は、柔らかく笑った。特に反対する気配は無い。
勿論、何を言っても仕様が無いと、割り切っているのかもしれない。
「その方と、お話しすることは、可能でしょうか」
花は孟徳の前の茶器に茶を注ぎながら、そんなことを言った。
「……俺の前で他の男に会いたいだなんて、言わないでほしいなぁ」
「御戯れを」
先程、同じ言葉を言われた。彼と彼女は、何処か似ている。
(似たものを知っていると、言っていたけど)
「私も、旅が長いものですから。異邦の方とお話しするのは、好きなんです」
「なるほど」
(……それは、もしかして)
「彼は俺の臣下じゃないからなぁ。命令は出来ないよ」
「彼に、私が話したがっていたと、伝えていただければ充分です」
「……随分な自信だね?」
「ええ。彼が私の知人に似ている限り――彼は、私に興味を持つでしょうから」
(彼に似ているのは――君自身じゃあ、ないのかな)
孟徳は僅かに、目を眇めた。
彼等は何か、全て了解しているようなところがある。彼女は何か、彼を特別視しているところがある――おもしろく、ない。
「ふぅん。そんな風に言って」
「……?」
「俺の前でそんな風に言って――俺がわざと、彼と君を会わせないとは、思わないの?」
「……」
彼女は目を瞬いた。純粋に、驚いたようだった。不思議そうでもある。
それから、また、やわらかく笑った。
「そちらの自信は、残念ながら。それでなくても、丞相はそのように狭量な方ではないでしょう」
「そっちの自信も持っていいよ」
御戯れを、と。
彼女は、もう一度小さく笑った。
茶器を口に運ぶ。彼女の淹れた茶を飲むなんて、文若あたりが知ったら眉を顰めるだろう。
けれど彼女は、そんな風に俺を裏切ることはしない。
(……これは、信用か)
(それとも、信頼かな)
そんな事を思って、少し笑った。彼女が首を傾ける。
「? 何を?」
「いや、……そうだ」
ふと思いついて、彼女の瞳を覗き込んだ。これからこの唇は、ひどいことを言う。
彼女にとってか、俺にとってかはわからないけれど、ひどいことを。
「ねぇ。……玄徳の手のものが、君を迎えに来たらどうする?」
彼女は流石に、息を飲んだ。
戯れにしては過ぎた問いだ。
彼女はゆっくり一つ瞬きをしてから、目を逸らすことも、笑うこともなく、唇を、開いた。
「どうするも、……急いで逃げろと言いますね」
「え」
「この状況では、私を連れて此処を出るのは、少しばかり不可能の度合いが高い」
「……帰らないの」
「そんなことをしたら、丞相、あなたが怒るでしょう」
それはどうにも、得策とは言い難い。
真面目腐って彼女は言い、きょとんとする孟徳をからかうように唇を上げた。
(……、どういうこと、)
(彼女は、嘘を)
「……そうだね。徐州の二の舞は、嫌だもんねぇ」
動揺したのを誤魔化すように言うと、彼女は僅かに眉を寄せた。
「その言い方は、誤解されます」
「……!」
不快げな言葉。端的で――けれど彼女の言葉に宿る、それは。
「私は、知ってるんですよ」
「……なんでも?」
「私が知る限りのことは」
(……「あなたが怒るから」?)
(俺が怒って――それでも、徐州のようなことにはならないと、知っているという)
(それなのに、俺の怒りを恐れるなんて、――俺でなくても、わかる嘘だ)
(なのに――逃げないのは、)
(逃げないのは、本当だなんて)
「……君は、何を知ってるんだろうなぁ……」
「? ……彼の件、よろしくお願いしますね」
「はいはい」
伏龍の――掌の上、だろうか。
けれどどうして――だとしたらその掌は、随分、温もりが過ぎるだろう。
嘘か本当かは判っても――彼女の考えていることは、まるでさっぱり、わからない。
それでも、どうしてこんなに楽しいのか――孟徳は自分自身が、よくわからなかった。
(花孔明、本領発揮? 次回は同じシーンの花視点です)
「無理して丞相なんて言わなくていいよ。……女の子を閉じ込めるのは、どうもなぁ」
ぴくり、と男の眉が動いた。この男は時折、こんな顔をする。苛立っているような、失望しているような、それを必死で見せまいとしているような表情だ。
この男は使える。けれど、この顔がどうも、ひっかかる。
「別に牢でなくても良いのです、せめてもっと奥……若しくは、丞相の後宮でも構いません。しかし、今の場所では、危険です」
「危険、ね。彼女には策知がある。奥にやるほうが危なくないかなぁ。宮の女を篭絡されて暗殺されるとか、困るし」
「御戯れを、……孔明の知は、玄徳軍にとって必要不可欠です。どんな手を使ってでも、取り返しに来ます」
「そうかな。……玄徳が、流浪の軍で終わるつもりなら、徳と義だけを抱くならば、彼女の知など不用だろう」
「……」
また、あの顔だ。
彼は少なくとも、信用できる。
彼には不思議な才知がある。それは、彼女に――孔明に感じるものと、同じ類の才知だ。孟徳の知りうる範囲を超えた何か。
「だとしても。……義を唱える玄徳が孔明を見捨てるなど、それこそありえぬ話でしょう。せめて、彼女の部屋に見張りを。できれば、窓にも夜番を置いてください」
「……」
彼は随分と、この話に固執する。彼女を捕らえてからずっと、繰り返し、この男は唱えている。殺すか、出来ぬのならば深く捕らえよ、と。
(この男の目的のためには、随分と、彼女が――諸葛孔明が邪魔らしい)
孟徳は根負けするような形で溜息をついた。
「……わかった。扉に見張りを。外に番を。それでいいんだろう」
「……」
お分かりいただけて何よりです、と、男は、ほっとしたように息をついた。彼は何か、確かめるようにこちらを見た。彼の瞳は黒々としていて――深い海のようにも、薄い紙のようにも見える。
彼は信用できるが、――とても、信頼は、できない。
そもそも誰をも信頼するつもりは無いが――孟徳は彼の、どこか冷たい瞳を見て、その思いを新たにしたのだった。
* * *
「護衛、ですか」
「うん。……君は他国の軍師だし、いくら俺のお気に入りって言っても、暴走する輩が出てこないとは限らないからね。窮屈かもしれないけど、我慢してくれないかな」
孔明は、薄く笑った。何もかも見通していると言いたげな透明な瞳が、こちらを見上げる。
ああ、彼女は――たしかに、小さな女の子などではない。
それは歳の話ではなくて、彼女は確かに、伏龍と称されし奇才なのだった。
「例の、異邦の方が?」
「……なんでそう思うのかな」
「なんとなくですけど」
彼女は、柔らかく笑った。特に反対する気配は無い。
勿論、何を言っても仕様が無いと、割り切っているのかもしれない。
「その方と、お話しすることは、可能でしょうか」
花は孟徳の前の茶器に茶を注ぎながら、そんなことを言った。
「……俺の前で他の男に会いたいだなんて、言わないでほしいなぁ」
「御戯れを」
先程、同じ言葉を言われた。彼と彼女は、何処か似ている。
(似たものを知っていると、言っていたけど)
「私も、旅が長いものですから。異邦の方とお話しするのは、好きなんです」
「なるほど」
(……それは、もしかして)
「彼は俺の臣下じゃないからなぁ。命令は出来ないよ」
「彼に、私が話したがっていたと、伝えていただければ充分です」
「……随分な自信だね?」
「ええ。彼が私の知人に似ている限り――彼は、私に興味を持つでしょうから」
(彼に似ているのは――君自身じゃあ、ないのかな)
孟徳は僅かに、目を眇めた。
彼等は何か、全て了解しているようなところがある。彼女は何か、彼を特別視しているところがある――おもしろく、ない。
「ふぅん。そんな風に言って」
「……?」
「俺の前でそんな風に言って――俺がわざと、彼と君を会わせないとは、思わないの?」
「……」
彼女は目を瞬いた。純粋に、驚いたようだった。不思議そうでもある。
それから、また、やわらかく笑った。
「そちらの自信は、残念ながら。それでなくても、丞相はそのように狭量な方ではないでしょう」
「そっちの自信も持っていいよ」
御戯れを、と。
彼女は、もう一度小さく笑った。
茶器を口に運ぶ。彼女の淹れた茶を飲むなんて、文若あたりが知ったら眉を顰めるだろう。
けれど彼女は、そんな風に俺を裏切ることはしない。
(……これは、信用か)
(それとも、信頼かな)
そんな事を思って、少し笑った。彼女が首を傾ける。
「? 何を?」
「いや、……そうだ」
ふと思いついて、彼女の瞳を覗き込んだ。これからこの唇は、ひどいことを言う。
彼女にとってか、俺にとってかはわからないけれど、ひどいことを。
「ねぇ。……玄徳の手のものが、君を迎えに来たらどうする?」
彼女は流石に、息を飲んだ。
戯れにしては過ぎた問いだ。
彼女はゆっくり一つ瞬きをしてから、目を逸らすことも、笑うこともなく、唇を、開いた。
「どうするも、……急いで逃げろと言いますね」
「え」
「この状況では、私を連れて此処を出るのは、少しばかり不可能の度合いが高い」
「……帰らないの」
「そんなことをしたら、丞相、あなたが怒るでしょう」
それはどうにも、得策とは言い難い。
真面目腐って彼女は言い、きょとんとする孟徳をからかうように唇を上げた。
(……、どういうこと、)
(彼女は、嘘を)
「……そうだね。徐州の二の舞は、嫌だもんねぇ」
動揺したのを誤魔化すように言うと、彼女は僅かに眉を寄せた。
「その言い方は、誤解されます」
「……!」
不快げな言葉。端的で――けれど彼女の言葉に宿る、それは。
「私は、知ってるんですよ」
「……なんでも?」
「私が知る限りのことは」
(……「あなたが怒るから」?)
(俺が怒って――それでも、徐州のようなことにはならないと、知っているという)
(それなのに、俺の怒りを恐れるなんて、――俺でなくても、わかる嘘だ)
(なのに――逃げないのは、)
(逃げないのは、本当だなんて)
「……君は、何を知ってるんだろうなぁ……」
「? ……彼の件、よろしくお願いしますね」
「はいはい」
伏龍の――掌の上、だろうか。
けれどどうして――だとしたらその掌は、随分、温もりが過ぎるだろう。
嘘か本当かは判っても――彼女の考えていることは、まるでさっぱり、わからない。
それでも、どうしてこんなに楽しいのか――孟徳は自分自身が、よくわからなかった。
(花孔明、本領発揮? 次回は同じシーンの花視点です)
孫家の流儀 (仲謀)
里帰りとはいいものだ。
益州の地にとって玄徳軍は新参者だし、花もまた、益州の地をよく知るわけではない。
けれど、玄徳軍は。
この世界を訪れた花を、てらいなく受け入れてくれた玄徳をはじめとする、玄徳軍は――花にとって、この世界での故郷ともいうべき場所だった。
そして故郷というのは、何とも居心地がいいものだ――懐かしい顔と共に過ごす三月はあっという間に過ぎて、そろそろ逢いたい顔が日増しにちらつくようになってきた、そんな頃。
「それにしても、よくあの男が許したわね? こんな長期間」
自分で作った菓子を摘みながら、芙蓉姫が首を傾けた。
「……」
花は思わず苦笑する。あの男――とは、勿論、仲謀のことだろう。芙蓉姫の中では、仲謀は――花が最初に思っていたのと同じ、いけすかない俺様男、という分類になっているらしい。
「仲謀は、優しいよ」
小さく、庇ってみる。しかし、芙蓉姫はより嫌そうに顔を顰めた。
「懐柔されてる。……あーあ、ずっとここにいればいいのに」
ふてくされたように言う芙蓉姫がかわいらしくて、花は少し笑ってしまった。姿勢悪く卓に顔を乗せているさまが、昔――元の世界で友人とおしゃべりをしていたときの感覚を思い出させて、思わず芙蓉姫の頭に手が伸びた。
よしよし。
「ごめんね」
「……もう。なんだかすっかり、大人っぽくなっちゃって」
芙蓉姫は恨みがましい目をこちらに向けてから、ふふ、と笑った。
「嘘よ。ほんとは、嬉しいの。嬉しいけど、なんだか悔しくて」
「?」
「花が、幸せそうで」
芙蓉姫がなんだか、とても子供のような顔をしている、と思った。花は少し沈黙した後、うん、と、頷いた。
「うん、……しあわせだよ」
芙蓉姫が体を起こして、花が先程したように、花の頭に手を伸ばしてくる。
ぐりぐり、と力任せに頭を撫でられて、確かに私はしあわせだな、と、そんな事を思った。
「すみません、お邪魔してもいいですか?」
二杯目のお茶を入れたところで、扉を叩く音と、控えめな声が響いた。
「尚香さん! 勿論、どうぞ」
「お邪魔します」
華やかな笑顔と共に、孫家の象徴のような金髪とふわふわの服を輝かせて、尚香が姿を見せる。
「お久しぶりです、花さん。お元気そうで、なによりです」
「こちらこそ、お久しぶりです。お菓子があるんですよ。今、お茶を入れますね」
「すみません」
椅子をもう一つ並べて、茶器を用意する。芙蓉姫と尚香はすっかり打ち解けているらしく、「これ、この間頂いたお菓子ですよね。すごく美味しかったです」等と、可愛らしく言葉を交わしている。なんだかとても華やかだなぁ、と思いながら、茶器を尚香の前に置いた。
「いただきます。……それにしても、よく兄が許しましたね」
今度は、流石に噴出してしまった。
「?」
不思議そうな尚香の隣で、芙蓉姫もけらけらと笑う。
「それね、さっき、私も同じこと言ったの」
「え、そうなんですか。でも、不思議なんですもの。兄は、我侭なところのある人ですから」
「妹からもこの評価……、……ほんとに花をお嫁にやっていいのかしら」
「! いえ、勿論、いいところもたくさんありますから!」
慌てる尚香に笑ってしまう。
「でもね……やっぱり、ずっとここにいればいいのに、って思っちゃうわ」
芙蓉姫が先程よりは随分冗談めかして、同じことを言う。妹を嫁にやりたくない気分? と首を傾げるのに笑っていると、尚香がふと真顔になった。
「それは、だめです」
「……?」
勿論冗談よ、と芙蓉姫が笑って言う前に、尚香はごく真面目な顔で言った。
「嫁盗りは、孫家の流儀ですから。兄がここまで、花さんを奪いに来てしまいますわ」
「……へ?」
花と芙蓉姫が、ふたりで同じように目を瞬く。
その前で、尚香は真面目腐った顔のまま続ける。
「上の兄――伯符兄上が言っていたんです。欲しい女は、攫ってでも手に入れろって。……ふふ、伯符兄上は、実際二喬を攫ってきたことがありますから」
「……孫家って、過激なのねぇ」
「だから、あんまりこっちに長くいるようだと、痺れを切らしてしまうかもしれません」
そんなまさか――花が笑おうとしたところで、ばたばたばた、と、非常に慌てた足音が部屋に近付いてくるのが聞こえた。
まさか。
思いは三人一緒だっただろう。失礼します! という声も、足音と同じく慌てていた。
「はーい?」
「すみません、あの、……」
今度は戸惑うように口ごもっている。何事だろうと思いながら、扉に近付く、と。
扉は、花が開ける前に、開かれた。
「……ったく。どんだけ里帰りしてるつもりなんだ、お前は」
「……!」
あからさまに苛立った顔で、――僅かに疲れを見せる顔で、仲謀が、立っていた。
「精々一月だろうと思ってりゃ……お前今がいつだか言ってみろ、こら」
「……え、と」
後ろで、許可取ってたわけじゃなかったのねぇ、と、不釣合いにのんびりした芙蓉姫の声が響くのが、居た堪れない。
「ごめんなさい。……そろそろね、帰ろうと」
「――」
これは本心だ。なにより――仲謀の顔を見てどうしようもなく高鳴った胸が、正直だ。
逢ってしまえば、どうして三月も離れていられたのかもわからない。
花の顔を見下ろした仲謀は、僅かに目を眇めたあと――花の手をとった。
「なら構わねぇな。――帰るぞ」
「うん。……って、え? い、今すぐ!? 挨拶、とか」
「こっちは子敬に無理言って来てんだよ、んな時間あるが」
「え、ええー!?」
子敬に許可を取ってきただけ偉いんです、花さん、と、これまた背後から聞こえてきた呟きに――花は少し納得した。……疲れた顔を、しているはずだ。
思わず、手を握る。
「……ごめんね」
「わかりゃいい。……ったく、戻ってこねぇんじゃねぇかと」
「帰るよ」
仲謀の言葉を遮るように、花ははっきりと言った。
「ちゃんと帰るよ。私の帰る場所は、――仲謀の、いるところだもん」
思わず、と言うように振り返った仲謀の顔が、なんだか赤い。
「……改めて言わなくたっていいんだよ! ……っとにお前は……」
ぐっ、と、手を強く引かれた。照れ隠しだ。なにか変な事を言ったかな――思いながら、花は、なるほどこれが孫家の流儀か――と、奇妙に納得するような気分だった。
(よく子敬が許したなぁ)
益州の地にとって玄徳軍は新参者だし、花もまた、益州の地をよく知るわけではない。
けれど、玄徳軍は。
この世界を訪れた花を、てらいなく受け入れてくれた玄徳をはじめとする、玄徳軍は――花にとって、この世界での故郷ともいうべき場所だった。
そして故郷というのは、何とも居心地がいいものだ――懐かしい顔と共に過ごす三月はあっという間に過ぎて、そろそろ逢いたい顔が日増しにちらつくようになってきた、そんな頃。
「それにしても、よくあの男が許したわね? こんな長期間」
自分で作った菓子を摘みながら、芙蓉姫が首を傾けた。
「……」
花は思わず苦笑する。あの男――とは、勿論、仲謀のことだろう。芙蓉姫の中では、仲謀は――花が最初に思っていたのと同じ、いけすかない俺様男、という分類になっているらしい。
「仲謀は、優しいよ」
小さく、庇ってみる。しかし、芙蓉姫はより嫌そうに顔を顰めた。
「懐柔されてる。……あーあ、ずっとここにいればいいのに」
ふてくされたように言う芙蓉姫がかわいらしくて、花は少し笑ってしまった。姿勢悪く卓に顔を乗せているさまが、昔――元の世界で友人とおしゃべりをしていたときの感覚を思い出させて、思わず芙蓉姫の頭に手が伸びた。
よしよし。
「ごめんね」
「……もう。なんだかすっかり、大人っぽくなっちゃって」
芙蓉姫は恨みがましい目をこちらに向けてから、ふふ、と笑った。
「嘘よ。ほんとは、嬉しいの。嬉しいけど、なんだか悔しくて」
「?」
「花が、幸せそうで」
芙蓉姫がなんだか、とても子供のような顔をしている、と思った。花は少し沈黙した後、うん、と、頷いた。
「うん、……しあわせだよ」
芙蓉姫が体を起こして、花が先程したように、花の頭に手を伸ばしてくる。
ぐりぐり、と力任せに頭を撫でられて、確かに私はしあわせだな、と、そんな事を思った。
「すみません、お邪魔してもいいですか?」
二杯目のお茶を入れたところで、扉を叩く音と、控えめな声が響いた。
「尚香さん! 勿論、どうぞ」
「お邪魔します」
華やかな笑顔と共に、孫家の象徴のような金髪とふわふわの服を輝かせて、尚香が姿を見せる。
「お久しぶりです、花さん。お元気そうで、なによりです」
「こちらこそ、お久しぶりです。お菓子があるんですよ。今、お茶を入れますね」
「すみません」
椅子をもう一つ並べて、茶器を用意する。芙蓉姫と尚香はすっかり打ち解けているらしく、「これ、この間頂いたお菓子ですよね。すごく美味しかったです」等と、可愛らしく言葉を交わしている。なんだかとても華やかだなぁ、と思いながら、茶器を尚香の前に置いた。
「いただきます。……それにしても、よく兄が許しましたね」
今度は、流石に噴出してしまった。
「?」
不思議そうな尚香の隣で、芙蓉姫もけらけらと笑う。
「それね、さっき、私も同じこと言ったの」
「え、そうなんですか。でも、不思議なんですもの。兄は、我侭なところのある人ですから」
「妹からもこの評価……、……ほんとに花をお嫁にやっていいのかしら」
「! いえ、勿論、いいところもたくさんありますから!」
慌てる尚香に笑ってしまう。
「でもね……やっぱり、ずっとここにいればいいのに、って思っちゃうわ」
芙蓉姫が先程よりは随分冗談めかして、同じことを言う。妹を嫁にやりたくない気分? と首を傾げるのに笑っていると、尚香がふと真顔になった。
「それは、だめです」
「……?」
勿論冗談よ、と芙蓉姫が笑って言う前に、尚香はごく真面目な顔で言った。
「嫁盗りは、孫家の流儀ですから。兄がここまで、花さんを奪いに来てしまいますわ」
「……へ?」
花と芙蓉姫が、ふたりで同じように目を瞬く。
その前で、尚香は真面目腐った顔のまま続ける。
「上の兄――伯符兄上が言っていたんです。欲しい女は、攫ってでも手に入れろって。……ふふ、伯符兄上は、実際二喬を攫ってきたことがありますから」
「……孫家って、過激なのねぇ」
「だから、あんまりこっちに長くいるようだと、痺れを切らしてしまうかもしれません」
そんなまさか――花が笑おうとしたところで、ばたばたばた、と、非常に慌てた足音が部屋に近付いてくるのが聞こえた。
まさか。
思いは三人一緒だっただろう。失礼します! という声も、足音と同じく慌てていた。
「はーい?」
「すみません、あの、……」
今度は戸惑うように口ごもっている。何事だろうと思いながら、扉に近付く、と。
扉は、花が開ける前に、開かれた。
「……ったく。どんだけ里帰りしてるつもりなんだ、お前は」
「……!」
あからさまに苛立った顔で、――僅かに疲れを見せる顔で、仲謀が、立っていた。
「精々一月だろうと思ってりゃ……お前今がいつだか言ってみろ、こら」
「……え、と」
後ろで、許可取ってたわけじゃなかったのねぇ、と、不釣合いにのんびりした芙蓉姫の声が響くのが、居た堪れない。
「ごめんなさい。……そろそろね、帰ろうと」
「――」
これは本心だ。なにより――仲謀の顔を見てどうしようもなく高鳴った胸が、正直だ。
逢ってしまえば、どうして三月も離れていられたのかもわからない。
花の顔を見下ろした仲謀は、僅かに目を眇めたあと――花の手をとった。
「なら構わねぇな。――帰るぞ」
「うん。……って、え? い、今すぐ!? 挨拶、とか」
「こっちは子敬に無理言って来てんだよ、んな時間あるが」
「え、ええー!?」
子敬に許可を取ってきただけ偉いんです、花さん、と、これまた背後から聞こえてきた呟きに――花は少し納得した。……疲れた顔を、しているはずだ。
思わず、手を握る。
「……ごめんね」
「わかりゃいい。……ったく、戻ってこねぇんじゃねぇかと」
「帰るよ」
仲謀の言葉を遮るように、花ははっきりと言った。
「ちゃんと帰るよ。私の帰る場所は、――仲謀の、いるところだもん」
思わず、と言うように振り返った仲謀の顔が、なんだか赤い。
「……改めて言わなくたっていいんだよ! ……っとにお前は……」
ぐっ、と、手を強く引かれた。照れ隠しだ。なにか変な事を言ったかな――思いながら、花は、なるほどこれが孫家の流儀か――と、奇妙に納得するような気分だった。
(よく子敬が許したなぁ)