姫金魚草
三国恋戦記中心、三国志関連二次創作サイト
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柔らかな棘(孔明)
「……花が、倒れた?」
孔明は一つ目を瞬いた。珍しい反応だなと芙蓉は思い、それから慌てて付け加える。
「ただの風邪です。熱も然程高くはないし、一日休めば快復するとのお見立てでしたよ」
「……、……ああ、そう」
ぱちぱちと忙しなく目を瞬いたあと、孔明は一つゆっくりと頷いた。それから、何事も無かったかのように書簡を広げる姿に、芙蓉は眉を顰める。
「見舞いにいかれないんですの?」
「ただの風邪だといったのは君だろう。これが片付いたら、顔を見にくらいは行くけど」
「……そうですか」
眼差しを伏せ、平静な声で言う孔明に、芙蓉は冷たく相槌を打った。
(……その書簡、逆さまですけど、)
(なんて、この意地っ張りには、絶対教えてやらないんだから)
そんなに動揺してるんだったら、駆け付ければいいのに。
花は恐らく眠っているだろうけれど、来てくれたと知れば喜ぶだろう。
(どうして、この国の男は揃いも揃って妙に頭が固いのかしら)
芙蓉は憤然と孔明の執務室を出ると、花の為の消化にいい食事を作りに炊事場へと向かったのだった。
* * *
孔明が花の部屋を訪れたのは、日が中天を越えて暫く、もう夕刻に近いという時間帯だった。
「……孔明、もういい。俺にそう言われる意味を、お前が一番よくわかっているだろう」
それも、玄徳が苦笑とともにそう言って話を切り上げた為で――孔明は軽く頭を抱えた。今日の自分はそんなに可笑しかっただろうか、いや、無論、可笑しかったからこその言葉だろうが。
(気付いたら書簡が逆様だったし)
(昼は食べ損ねるし……いや、これは一人だとよくあるか)
(玄徳様の話は耳に入らないし)
確かに今日の自分はおかしいようだ、と渋々認め、孔明はその原因に――やっとのことで、会いに行く決心をしたのだった。
「……花、……はいるよ」
軽く戸を叩いても返事はなく、孔明はそっと扉を開けた。寝台の上に横になった花は、静かに寝息を立てている。
(……なるほど、確かにたいしたことはなさそうだ)
そっと椅子を寝台の傍に引き寄せ、腰をかける。起こさないように気遣いながら額に触れると、僅かな熱は感じられたが、高熱というほどではない。流行り病の類でなくて、本当に良かった――孔明はそっと息をついた。
「……ごめんね。来るのが遅くなって」
安らかな顔を見て安堵したからだろう。吐息のように、言葉が漏れた。
これで彼女が苦しんでいたら――自分は病人の前で、病人より蒼い顔をしてしまったかもしれない。そんな姿を見せるだなんて、彼女の病をより悪化させることにしか繋がらないだろう。
だから、顔を出すのが怖かっただなんて、……芙蓉姫に言ったら、怒鳴られそうだが。
朝方の芙蓉姫の顔を思い出し、孔明は苦笑した。芙蓉姫は真っ直ぐで、孔明の行いの全てを、歯がゆく見ているのかもしれない。
(でもね、)
(……ボクは、後悔することが、やめられないでいるから)
こういうとき、花の顔を真っ直ぐに見ることが出来ないのだ。
孔明の胸に刺さったままの棘は、柔らかいからこそ、抜けることが無い。
(ボクはきっと、この痛みを、一生抱えていくのだろう)
(……花と共にある限り、ずっと)
それはなんだか、哀しいような、嬉しいような、奇妙な考えだった。
「……、ん」
ぴく、と身じろいだ花が、ゆっくりと瞼を開けた。
ぼんやりとした寝起きの瞳が、何かを探すように彷徨って――孔明を見つけて、とろりととける。
「師匠――ごめんなさい、お仕事」
「何を言ってるの。……具合は大丈夫?」
花の目が――孔明を見つけた途端に綻んだ顔が、孔明の胸をちくりと刺した。彼女は待っていたのかもしれない、と、思い当たれば苦しくなった。自分の歪みが、彼女を傷つける。
「はい。……もう、熱も引いたと思いますし、明日からはちゃんと働けます」
「無理しなくていいんだよ、ゆっくり休みなさい。数日くらい、君が居なくても大丈夫だから」
「……、」
言い方が拙かったかもしれない。花がしゅんと眉を下げる。孔明は花の髪をそっと撫でながら、付け加えた。
「風邪を甘く見ちゃいけないよ。……ここではどんな病だって、甘くみちゃいけないんだ。ボクなら大丈夫。君の分まで働くよ」
「師匠、」
花は孔明を見上げて、そろりと手を蒲団から出した。花を撫でる孔明の手をとり、そっと握る。
「……師匠。そんな顔、しないでください」
「え?」
孔明は首を傾けた。どんな顔を、していただろう。いつもどおりに、笑えていると思ったのだけど。
「私の国では、……たしかに、ここより医学は発展していて、此処では治らない多くの病が、治るかもしれません」
花は孔明の手を引き寄せて、両手できゅっと包むように握った。
「でも、……風邪の特効薬はないんです。それに、此処にはない多くの理由で、やっぱりたくさん、人は死ぬんです」
「……、花、」
「私は今――こうやって、師匠が居てくれて、嬉しいです」
花は柔らかく微笑んだ。孔明はなにも言えずに、花を見つめた。
(ああ、)
(見透かされるっていうのは、こういう感覚か)
じわりと胸が痛んだ。柔らかな棘に花が触れる。抜けないのだと、教えてやりたい。
抜けないのだから、そっとしておいて欲しいと。
これは自分の抱えるべき痛みだから、気にしないで居てほしいと。
(これは、彼女に此処を選ばせてしまったボクが、抱えるべき痛みなのに)
(……どうして、君は)
「だから師匠――そんな顔をしないで下さい」
「……」
「私がここにいると――辛いですか」
孔明は手に僅かに力を込め、花の手を握り返した。
「そうだね、……辛いよ」
身体を屈めて、もう一方の手も花の手に重ねて、祈るように頭を近づける。
「それでも、……君が此処に居て、どうしようもなく、嬉しいんだ」
だからより、辛いのかもしれない。
小さく溢すと、花は少し、困ったように笑った。
「御揃いですね」
「え?」
「私も少し――辛いんです」
花はそう囁いて、目を閉じた。孔明は顔を上げて、その言葉を問いただそうとし――口を閉じた。
「……、……おやすみ。ちゃんと寝て、しっかり身体を治しなさい」
手を離し、毛布の中に入れてやる。そっと頭を撫でると、話し疲れたのもあるのだろう、直ぐに小さな寝息が聞こえてくる。
(……辛い、か)
(そうだね、……ごめんね、こんな顔をして)
柔らかな棘は孔明だけではなく、花をも小さく刺していたらしい。
孔明は苦笑を溢すと、そっと身体を屈めた。
「でも、好きなんだ。……ごめんね」
もう熱も下がったように見える額へと、唇を落とす。
「……ごめんね」
もう一度小さく呟いて――この痛みすら分かち合ってしまう少女の寝顔を、暫く眺めていたのだった。
(痛みすら愛そうか)
孔明は一つ目を瞬いた。珍しい反応だなと芙蓉は思い、それから慌てて付け加える。
「ただの風邪です。熱も然程高くはないし、一日休めば快復するとのお見立てでしたよ」
「……、……ああ、そう」
ぱちぱちと忙しなく目を瞬いたあと、孔明は一つゆっくりと頷いた。それから、何事も無かったかのように書簡を広げる姿に、芙蓉は眉を顰める。
「見舞いにいかれないんですの?」
「ただの風邪だといったのは君だろう。これが片付いたら、顔を見にくらいは行くけど」
「……そうですか」
眼差しを伏せ、平静な声で言う孔明に、芙蓉は冷たく相槌を打った。
(……その書簡、逆さまですけど、)
(なんて、この意地っ張りには、絶対教えてやらないんだから)
そんなに動揺してるんだったら、駆け付ければいいのに。
花は恐らく眠っているだろうけれど、来てくれたと知れば喜ぶだろう。
(どうして、この国の男は揃いも揃って妙に頭が固いのかしら)
芙蓉は憤然と孔明の執務室を出ると、花の為の消化にいい食事を作りに炊事場へと向かったのだった。
* * *
孔明が花の部屋を訪れたのは、日が中天を越えて暫く、もう夕刻に近いという時間帯だった。
「……孔明、もういい。俺にそう言われる意味を、お前が一番よくわかっているだろう」
それも、玄徳が苦笑とともにそう言って話を切り上げた為で――孔明は軽く頭を抱えた。今日の自分はそんなに可笑しかっただろうか、いや、無論、可笑しかったからこその言葉だろうが。
(気付いたら書簡が逆様だったし)
(昼は食べ損ねるし……いや、これは一人だとよくあるか)
(玄徳様の話は耳に入らないし)
確かに今日の自分はおかしいようだ、と渋々認め、孔明はその原因に――やっとのことで、会いに行く決心をしたのだった。
「……花、……はいるよ」
軽く戸を叩いても返事はなく、孔明はそっと扉を開けた。寝台の上に横になった花は、静かに寝息を立てている。
(……なるほど、確かにたいしたことはなさそうだ)
そっと椅子を寝台の傍に引き寄せ、腰をかける。起こさないように気遣いながら額に触れると、僅かな熱は感じられたが、高熱というほどではない。流行り病の類でなくて、本当に良かった――孔明はそっと息をついた。
「……ごめんね。来るのが遅くなって」
安らかな顔を見て安堵したからだろう。吐息のように、言葉が漏れた。
これで彼女が苦しんでいたら――自分は病人の前で、病人より蒼い顔をしてしまったかもしれない。そんな姿を見せるだなんて、彼女の病をより悪化させることにしか繋がらないだろう。
だから、顔を出すのが怖かっただなんて、……芙蓉姫に言ったら、怒鳴られそうだが。
朝方の芙蓉姫の顔を思い出し、孔明は苦笑した。芙蓉姫は真っ直ぐで、孔明の行いの全てを、歯がゆく見ているのかもしれない。
(でもね、)
(……ボクは、後悔することが、やめられないでいるから)
こういうとき、花の顔を真っ直ぐに見ることが出来ないのだ。
孔明の胸に刺さったままの棘は、柔らかいからこそ、抜けることが無い。
(ボクはきっと、この痛みを、一生抱えていくのだろう)
(……花と共にある限り、ずっと)
それはなんだか、哀しいような、嬉しいような、奇妙な考えだった。
「……、ん」
ぴく、と身じろいだ花が、ゆっくりと瞼を開けた。
ぼんやりとした寝起きの瞳が、何かを探すように彷徨って――孔明を見つけて、とろりととける。
「師匠――ごめんなさい、お仕事」
「何を言ってるの。……具合は大丈夫?」
花の目が――孔明を見つけた途端に綻んだ顔が、孔明の胸をちくりと刺した。彼女は待っていたのかもしれない、と、思い当たれば苦しくなった。自分の歪みが、彼女を傷つける。
「はい。……もう、熱も引いたと思いますし、明日からはちゃんと働けます」
「無理しなくていいんだよ、ゆっくり休みなさい。数日くらい、君が居なくても大丈夫だから」
「……、」
言い方が拙かったかもしれない。花がしゅんと眉を下げる。孔明は花の髪をそっと撫でながら、付け加えた。
「風邪を甘く見ちゃいけないよ。……ここではどんな病だって、甘くみちゃいけないんだ。ボクなら大丈夫。君の分まで働くよ」
「師匠、」
花は孔明を見上げて、そろりと手を蒲団から出した。花を撫でる孔明の手をとり、そっと握る。
「……師匠。そんな顔、しないでください」
「え?」
孔明は首を傾けた。どんな顔を、していただろう。いつもどおりに、笑えていると思ったのだけど。
「私の国では、……たしかに、ここより医学は発展していて、此処では治らない多くの病が、治るかもしれません」
花は孔明の手を引き寄せて、両手できゅっと包むように握った。
「でも、……風邪の特効薬はないんです。それに、此処にはない多くの理由で、やっぱりたくさん、人は死ぬんです」
「……、花、」
「私は今――こうやって、師匠が居てくれて、嬉しいです」
花は柔らかく微笑んだ。孔明はなにも言えずに、花を見つめた。
(ああ、)
(見透かされるっていうのは、こういう感覚か)
じわりと胸が痛んだ。柔らかな棘に花が触れる。抜けないのだと、教えてやりたい。
抜けないのだから、そっとしておいて欲しいと。
これは自分の抱えるべき痛みだから、気にしないで居てほしいと。
(これは、彼女に此処を選ばせてしまったボクが、抱えるべき痛みなのに)
(……どうして、君は)
「だから師匠――そんな顔をしないで下さい」
「……」
「私がここにいると――辛いですか」
孔明は手に僅かに力を込め、花の手を握り返した。
「そうだね、……辛いよ」
身体を屈めて、もう一方の手も花の手に重ねて、祈るように頭を近づける。
「それでも、……君が此処に居て、どうしようもなく、嬉しいんだ」
だからより、辛いのかもしれない。
小さく溢すと、花は少し、困ったように笑った。
「御揃いですね」
「え?」
「私も少し――辛いんです」
花はそう囁いて、目を閉じた。孔明は顔を上げて、その言葉を問いただそうとし――口を閉じた。
「……、……おやすみ。ちゃんと寝て、しっかり身体を治しなさい」
手を離し、毛布の中に入れてやる。そっと頭を撫でると、話し疲れたのもあるのだろう、直ぐに小さな寝息が聞こえてくる。
(……辛い、か)
(そうだね、……ごめんね、こんな顔をして)
柔らかな棘は孔明だけではなく、花をも小さく刺していたらしい。
孔明は苦笑を溢すと、そっと身体を屈めた。
「でも、好きなんだ。……ごめんね」
もう熱も下がったように見える額へと、唇を落とす。
「……ごめんね」
もう一度小さく呟いて――この痛みすら分かち合ってしまう少女の寝顔を、暫く眺めていたのだった。
(痛みすら愛そうか)
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おわびとか。(雑記と拍手レス)
致命的なミスを拍手でご指摘頂き、慌てて修正。
やってしまった……
そういえば、文若が酒に弱く、翼徳の酒癖が悪いのは公式として、他はどうなんでしょうね?
あの宴会の様子を見るに、丞相もザルというわけではなさそう。
雲長あたり、強そうですなぁ。
酒は飲めども飲まれるな。
呑まれつつ、拍手レスです。
やってしまった……
そういえば、文若が酒に弱く、翼徳の酒癖が悪いのは公式として、他はどうなんでしょうね?
あの宴会の様子を見るに、丞相もザルというわけではなさそう。
雲長あたり、強そうですなぁ。
酒は飲めども飲まれるな。
呑まれつつ、拍手レスです。
現代パロとか妄想する(雑記と拍手レス)
幸福な夢を生きた…… って誰の台詞だっけ
と思ってぐぐったら蒼天関羽の台詞でガチで吹きました、逢坂です
(書いてる段階でぐぐれよ!)
(書く前にぐぐれ)
そんな話はともかく。
今日はなんとなく現代パロとかを妄想していました。
お持ち帰りエンドではなくて、普通のパラレルです。
青年実業家孟徳(ただしお家は代議士の家系)とその秘書文若は鉄板だと思うんですが(勝手に)
仲謀も地方の大物政治家の次男坊(大学生)で伯符(長男)も合わせて二人のお目付け役公瑾とかかなぁと割と簡単に妄想できたんですが
蜀、難しい。
というか、私の中の劉備(玄徳ではなく、劉備であることがまた難しい)のイメージのせいで、
『玄徳組組長・劉備玄徳』
とかしか思いつかない……orz
(ほ、ほら、侠のものだから!)(任侠!?)
「翼徳、カタギに手を出すんじゃない」
「でも雲長兄ぃ、こいつが……!」
みたいなね!
しかしそれだと子龍の設定が思いつかないわけで……
師匠は玄徳組の資金調達係とかでいいと思います。
あとついでに花ちゃんの居場所もなかった……orz
続きは拍手レスです。かわいそうな頭ですみません。
と思ってぐぐったら蒼天関羽の台詞でガチで吹きました、逢坂です
(書いてる段階でぐぐれよ!)
(書く前にぐぐれ)
そんな話はともかく。
今日はなんとなく現代パロとかを妄想していました。
お持ち帰りエンドではなくて、普通のパラレルです。
青年実業家孟徳(ただしお家は代議士の家系)とその秘書文若は鉄板だと思うんですが(勝手に)
仲謀も地方の大物政治家の次男坊(大学生)で伯符(長男)も合わせて二人のお目付け役公瑾とかかなぁと割と簡単に妄想できたんですが
蜀、難しい。
というか、私の中の劉備(玄徳ではなく、劉備であることがまた難しい)のイメージのせいで、
『玄徳組組長・劉備玄徳』
とかしか思いつかない……orz
(ほ、ほら、侠のものだから!)(任侠!?)
「翼徳、カタギに手を出すんじゃない」
「でも雲長兄ぃ、こいつが……!」
みたいなね!
しかしそれだと子龍の設定が思いつかないわけで……
師匠は玄徳組の資金調達係とかでいいと思います。
あとついでに花ちゃんの居場所もなかった……orz
続きは拍手レスです。かわいそうな頭ですみません。
夢を生きる (雲長)
(所謂IF END)
「……花」
「、はい?」
身一つで来た身には纏める物などない。
白紙が埋まり、色の変わった本をぼんやりと眺めていた花のもとを、訪ねてきた人物。
低く優しい声を持つ彼が何を話しに来たのか――花には、なんとなくわかるような気がした。
「すまないな、遅くに」
「いえ……お茶を、淹れますね」
柔らかく微笑む男からは、特有の陰のようなものが薄れた気がする。花はゆっくりと茶を淹れた――心の準備には、それくらいかかるような気がしたので。
「ありがとう。……菓子を作ってきたんだ」
丁度いいな、と、笑う彼もまた、何かを先延ばしにするように殊更緩慢に動く。
茶席の準備が整っても、暫くはゆっくりと菓子を口に運び、茶を啜る、柔らかな沈黙が横たわるだけだった。
心地よいこの沈黙を、失いたくない。
けれど、永遠は、何処にも無い。
花は伏せていた視線を上げた。
「……、」
ずっとこちらを見ていたのだろうか。雲長の視線と視線がぶつかり、逸らしそうになる。
(……だめだ)
何からも、逃げないと決めた。もう充分、猶予は貰った。
「花、……俺は……」
雲長は少し困っているような、けれど、もうすっかり決めてしまっている様子で、口を開いた。
「俺は、もう、逃げないと決めた。……だから、」
此処に、残ろうと思う。
花は一度目を瞬いた。雲長の、静かな瞳。けれどそこには深い闇も、諦めもない。
ただ、煌くような――眩しいような光が、あるだけだ。
「はい」
「……あんなに言ってくれたのに、すまない。でも、俺は」
この世界に、まだ、出来ることがある。
お前が変えてくれた『関雲長』の未来で、出来ることが、あるんだ。
本物の――物語の雲長は、あの日、荊州で命を落とすはずだった。
その未来が変わり――此処から先は、誰も知らない、物語。
「お前が俺の生を願ってくれた――俺もまた、俺の生を、願った。そうして手に入れた未来を、……俺は、大切にしたいと、思う」
そうして、充分に生きたら。
俺はきっと、きちんと、俺自身として――関雲長でも、長岡広生でもなく、――また、その両方である俺として、死ぬことが出来るだろう。
雲長が淡々とそう語るのを、ひとつも聞き漏らさないように。
花は息をつめて――彼の言葉を、聞いていた。
「だから、……お前は」
「帰れなんて言ったら、怒りますよ」
雲長がはじめて、表情を変えた。
花はきっぱりと、笑った。雲長が決めていたように、花もまた、最初から決めていたのだと、伝えるために。
「私も此処で――この世界で、この世界の住人として、……雲長さんのそばで、生きていきます」
それは、おかしな願いですか?
首を傾ける。雲長は驚きに見開いた目を――ゆっくりと、細めた。
「……いや、」
困ったような、――くすぐったい様な、笑顔。
雲長がこうして笑うのを、ずっと見ていたい。それは、幼い願いかもしれない。逸った決断かもしれない。
けれど、花が此処で手に入れたもの。この世界を生きるということ。天秤にかけるような話ではなく、比べることなど出来よう筈もない。それでも、雲長が決めたように、花もまた、決めたのだ。
花はそっと、本の上に手を置いた。
「一緒に、生きて。一緒に、……」
「言わなくていい。……わかっている」
雲長が、手を重ねる。長く戦ってきた男の、無骨な手。そのまま手を握られて、――気付いたときには、顔が、すぐ近くにあった。
「……、雲長さん、」
「幸せにする」
「……」
「絶対、お前を幸せにするから」
「……はい」
花は、自分が泣きそうになっていることに気付いた。それは決別の涙であったし、喜びの涙であったし、――郷愁の涙であったのかもしれない。
唇が、重なる。
二人の手の下で、役目を終えた本がひっそりと消えたことに、目を閉じたままの二人は、気付かなかった。
(幸福な夢を生きる)
「……花」
「、はい?」
身一つで来た身には纏める物などない。
白紙が埋まり、色の変わった本をぼんやりと眺めていた花のもとを、訪ねてきた人物。
低く優しい声を持つ彼が何を話しに来たのか――花には、なんとなくわかるような気がした。
「すまないな、遅くに」
「いえ……お茶を、淹れますね」
柔らかく微笑む男からは、特有の陰のようなものが薄れた気がする。花はゆっくりと茶を淹れた――心の準備には、それくらいかかるような気がしたので。
「ありがとう。……菓子を作ってきたんだ」
丁度いいな、と、笑う彼もまた、何かを先延ばしにするように殊更緩慢に動く。
茶席の準備が整っても、暫くはゆっくりと菓子を口に運び、茶を啜る、柔らかな沈黙が横たわるだけだった。
心地よいこの沈黙を、失いたくない。
けれど、永遠は、何処にも無い。
花は伏せていた視線を上げた。
「……、」
ずっとこちらを見ていたのだろうか。雲長の視線と視線がぶつかり、逸らしそうになる。
(……だめだ)
何からも、逃げないと決めた。もう充分、猶予は貰った。
「花、……俺は……」
雲長は少し困っているような、けれど、もうすっかり決めてしまっている様子で、口を開いた。
「俺は、もう、逃げないと決めた。……だから、」
此処に、残ろうと思う。
花は一度目を瞬いた。雲長の、静かな瞳。けれどそこには深い闇も、諦めもない。
ただ、煌くような――眩しいような光が、あるだけだ。
「はい」
「……あんなに言ってくれたのに、すまない。でも、俺は」
この世界に、まだ、出来ることがある。
お前が変えてくれた『関雲長』の未来で、出来ることが、あるんだ。
本物の――物語の雲長は、あの日、荊州で命を落とすはずだった。
その未来が変わり――此処から先は、誰も知らない、物語。
「お前が俺の生を願ってくれた――俺もまた、俺の生を、願った。そうして手に入れた未来を、……俺は、大切にしたいと、思う」
そうして、充分に生きたら。
俺はきっと、きちんと、俺自身として――関雲長でも、長岡広生でもなく、――また、その両方である俺として、死ぬことが出来るだろう。
雲長が淡々とそう語るのを、ひとつも聞き漏らさないように。
花は息をつめて――彼の言葉を、聞いていた。
「だから、……お前は」
「帰れなんて言ったら、怒りますよ」
雲長がはじめて、表情を変えた。
花はきっぱりと、笑った。雲長が決めていたように、花もまた、最初から決めていたのだと、伝えるために。
「私も此処で――この世界で、この世界の住人として、……雲長さんのそばで、生きていきます」
それは、おかしな願いですか?
首を傾ける。雲長は驚きに見開いた目を――ゆっくりと、細めた。
「……いや、」
困ったような、――くすぐったい様な、笑顔。
雲長がこうして笑うのを、ずっと見ていたい。それは、幼い願いかもしれない。逸った決断かもしれない。
けれど、花が此処で手に入れたもの。この世界を生きるということ。天秤にかけるような話ではなく、比べることなど出来よう筈もない。それでも、雲長が決めたように、花もまた、決めたのだ。
花はそっと、本の上に手を置いた。
「一緒に、生きて。一緒に、……」
「言わなくていい。……わかっている」
雲長が、手を重ねる。長く戦ってきた男の、無骨な手。そのまま手を握られて、――気付いたときには、顔が、すぐ近くにあった。
「……、雲長さん、」
「幸せにする」
「……」
「絶対、お前を幸せにするから」
「……はい」
花は、自分が泣きそうになっていることに気付いた。それは決別の涙であったし、喜びの涙であったし、――郷愁の涙であったのかもしれない。
唇が、重なる。
二人の手の下で、役目を終えた本がひっそりと消えたことに、目を閉じたままの二人は、気付かなかった。
(幸福な夢を生きる)
04 守りたいもの
(どうしよう)
花は、自分が余りに何も考えていなかったことに気付いて愕然とした。
(『孔明』だったら)
(……師匠だったら、こんな風には、ならない)
既に薄れて久しい記憶の中にある、『孔明』の姿。
彼だったら――花が正しく『孔明』であれたなら。
囚われて直ぐに、考えただろう。逃げる術を。若しくは、あの状況を上手く生かす策を。
(私は、……駒にすら、なれない)
(過去に縋って、記憶に頼って、永遠に溺れて)
そのとき、扉を叩く音が響いた。
ここを訪ねる者など、一人しかいない。
「! ……はい」
「入っていい?」
拒めるはずもなく、拒む理由もない問い。思考を中断された花は、慌てて椅子から立ち上がり、軽く髪を直してから、声の主――孟徳を迎えた。
「なにか、御用事ですか」
「用がなきゃ来ちゃいけないかな?」
「おそらく、用があっても、いらしてはいけないと思いますよ」
文若殿辺りに言わせれば、と花が笑うと、孟徳が小さく噴出した。花は孟徳に椅子を示し、自分は寝台へと腰掛けた。この部屋は貴人等が捕虜となった際に使うものらしく、調度は整っているが如何せん人を迎えるようには出来ていない。
「さっきの様子が、気になってね」
「……」
「彼を知ってる?」
隠せていたとは思っていない。意外な言葉ではなかったが、彼がそれをこうして直裁に尋ねてくることは、意外だった。――花の言葉など、信用していないだろうに。
「いえ。……不思議な服を着ていましたが、渡来の方ですか?」
「そんな感じなのかな。俺も、詳しくは知らないんだ」
「……詳しく知らない方を、幕下に?」
「まぁ、色々あってね」
珍しい誤魔化し方をするな、と思った。それほど言いたくない事情なのだろうか。
隠されれば、知りたくなるのが人情というものだし――今は、少しでも情報を得ておきたい。
疾うに孔明失格ではあるが、それは別に――花が、孔明であることをやめていい、ということではないのだ。
「彼自身は知りませんが。……似たものを知っている気がして、驚いたのです」
似たものとは、花自身や、雲長のことだ。孟徳は少し驚いたように眉を上げた。
「似た?」
「はい」
「……へぇ。故郷が同じなのかな。彼は何処か――遠くから来たようなことを言っていたけれど」
「遠くから? なにか、志でもあったのでしょうか」
「どうだろうね。……随分、彼を気にするね。それは、『似た人』に関係があるのかな」
孟徳がちらりと、探るような目をする。これが正しいのだ、と、花は思った。曹孟徳と諸葛孔明の会話としてやっと相応しい会話をしている。
「そうですね、……似ているとしたら、彼にもまた、志があるはずですから」
(私が、そして雲長が、そうであったように)
「そんなものがあるようには、……あー、でも、あるのかもなぁ。なにか、目的は」
(……!)
目的。
彼の目的がわかれば、策を立てることは容易くなる。
(……けれど、)
(そう考えることは、『孔明』として、正しいだろうか)
(……いや、師匠なら)
(異邦の客人に、興味を示さないはずが無い。だから、大丈夫だ)
「でも、俺は、それを知らないんだ」
「……え?」
「彼は、やりたいことがあると言っていたよ。そしてそれをやることは、俺の役に立つだろうって」
「……」
「だから俺は彼を軍に迎えたんだ。確かに彼には先見の明があったし――嘘は、ついていないみたいだったからね」
孟徳は、嘘をついているだろうか。
孟徳が、目的を知らぬまま、彼を軍に加えるなどということがありえるだろうか。
(……有り得る、だろうな)
(主が見つかるまで、という酷い条件を呑んだことすらある男)
(異邦人に対して、興味を持ったという理由だけで、それくらいのことはするだろう……)
「やりたいこと、ですか……」
「うん。それがね、すこし面白いな、と思って」
「……?」
「ねぇ。君は何のために、玄徳の元に居るの?」
「……それなら、」
お答えしたはずです、と、言いかけて。
問いが違うことに、気がついた。
『なんで、玄徳のところに仕官したの?』
あのときの問いは、こうだった。
今の問いは――何故、ではなく、何のために。
理由ではなく、目的を問うている。
何のために。
それは、何故、よりも余程、花にとって答えにくい質問だった。
(――『孔明』は、そうするから)
(……なんて、言っても、仕方が無い)
花が本当に『孔明』であれば――答えなど、幾らでもあるのだろう。
花の知る『孔明』は、各地を訪ね、民の暮らしを知り、――だからこそ、徳を尊ぶ主を選んだ人だった。
けれど、花は。
「……、みんなね」
「……、」
答えに窮した花に、不思議な色の目を向けて――それは、なんだか優しいように感じられる視線だった――孟徳は言った。
「大体みんな、こう言うんだよ。『漢王朝を守るため』とか、『丞相を守るため』とか、『民を守るため』とか」
「……それは、」
そうだろう、と思う。『孔明』の思いとて、最後のもの――『民のため』という言葉に還元できるものだ。思ってから、何故孟徳が彼の言を、『やりたいことがある』という彼の言をおもしろいと思ったのかを、理解した。
「彼は、自分のために、俺のところに来たって言ったんだよね。彼にとっては俺も、利用するものの一つなんだろうな、と思ったら、面白くてさ」
それもまた、そうだろう。
彼にとって此処は仮初の国で、彼が何処まで本の仕組みに気付いているかは知らないが、目的を果たしたら去るだけの世界だ。その国のなにかのために、という考えなど、浮かんでくるはずも無い。
思わず納得してしまった花を眺める孟徳の視線、その色に、花は気付かない。
気付かずに、ふと、それを面白いと思う孟徳は、一体なんのためにこうしているのだろう、という疑問を抱いた。
「……貴方は、」
口にしてから、同じ流れだと気がついた。
問われ、問い返し――ならば、同じ答えが返ってくるかもしれない。けれど言いかけた言葉を止めることは、出来なかった。
「なんのために?」
「……、」
孟徳は柔らかな笑みのまま、花を見つめた。あの時と似た微笑み。
「教えないよ」
同じ答え。……そうだろうな、と思ったところで、孟徳は笑みを深くした。
「って、言いたいところだけど。……嘘をつくのを躊躇ってくれたから、お礼に、教えてあげるよ」
「……え?」
「俺はね、なにかの目的のためになんて、そんな高尚なこと、できないんだ」
やりたいことも、守りたいものも、なんにもないんだ。
孟徳はあどけないとすら言える笑みとともにそう言った。
それが嘘ではないと、判ってしまう。
判ってしまうことに、驚いた。
(ああ、この人は)
(……この人は……)
「さて、……次は、本当のことを言ってくれるようになるのかな」
呆然と孟徳を見上げる花の前で、孟徳は立ち上がった。笑みは、いつものどこか掴みどころの無いものに戻っている。
けれど花は、動くことが出来なかった。
「疲れさせちゃったかな? ……おやすみ、孔明」
いい夢を。
孟徳の言葉に、止めを刺されたような気がした。
いい夢なんて、見れない。
(彼の前で、)
(『孔明』になんて、なれない)
今更に花は、自分が最初から絆されていたことに気がついて、愕然とした。
彼に自ら問いを投げたあのときから――彼自身に興味を持ってしまったあのときから、もう、花は、孔明でなど居られなかったのだ。
(師匠、)
(師匠、ごめんなさい)
(……師匠の居場所を奪ったのに。なのに私は)
(あの人を、曹孟徳を。……どうしようもなく知りたいと、そう、思ってしまう……)
野心もなければ忠心もなく。
欲望もなければ愛情も無い。
あんな笑顔で、そう言いきってしまえる彼を――救いたいと、どうしようもなく。
(花孔明、母性に目覚める)(←台無し)
花は、自分が余りに何も考えていなかったことに気付いて愕然とした。
(『孔明』だったら)
(……師匠だったら、こんな風には、ならない)
既に薄れて久しい記憶の中にある、『孔明』の姿。
彼だったら――花が正しく『孔明』であれたなら。
囚われて直ぐに、考えただろう。逃げる術を。若しくは、あの状況を上手く生かす策を。
(私は、……駒にすら、なれない)
(過去に縋って、記憶に頼って、永遠に溺れて)
そのとき、扉を叩く音が響いた。
ここを訪ねる者など、一人しかいない。
「! ……はい」
「入っていい?」
拒めるはずもなく、拒む理由もない問い。思考を中断された花は、慌てて椅子から立ち上がり、軽く髪を直してから、声の主――孟徳を迎えた。
「なにか、御用事ですか」
「用がなきゃ来ちゃいけないかな?」
「おそらく、用があっても、いらしてはいけないと思いますよ」
文若殿辺りに言わせれば、と花が笑うと、孟徳が小さく噴出した。花は孟徳に椅子を示し、自分は寝台へと腰掛けた。この部屋は貴人等が捕虜となった際に使うものらしく、調度は整っているが如何せん人を迎えるようには出来ていない。
「さっきの様子が、気になってね」
「……」
「彼を知ってる?」
隠せていたとは思っていない。意外な言葉ではなかったが、彼がそれをこうして直裁に尋ねてくることは、意外だった。――花の言葉など、信用していないだろうに。
「いえ。……不思議な服を着ていましたが、渡来の方ですか?」
「そんな感じなのかな。俺も、詳しくは知らないんだ」
「……詳しく知らない方を、幕下に?」
「まぁ、色々あってね」
珍しい誤魔化し方をするな、と思った。それほど言いたくない事情なのだろうか。
隠されれば、知りたくなるのが人情というものだし――今は、少しでも情報を得ておきたい。
疾うに孔明失格ではあるが、それは別に――花が、孔明であることをやめていい、ということではないのだ。
「彼自身は知りませんが。……似たものを知っている気がして、驚いたのです」
似たものとは、花自身や、雲長のことだ。孟徳は少し驚いたように眉を上げた。
「似た?」
「はい」
「……へぇ。故郷が同じなのかな。彼は何処か――遠くから来たようなことを言っていたけれど」
「遠くから? なにか、志でもあったのでしょうか」
「どうだろうね。……随分、彼を気にするね。それは、『似た人』に関係があるのかな」
孟徳がちらりと、探るような目をする。これが正しいのだ、と、花は思った。曹孟徳と諸葛孔明の会話としてやっと相応しい会話をしている。
「そうですね、……似ているとしたら、彼にもまた、志があるはずですから」
(私が、そして雲長が、そうであったように)
「そんなものがあるようには、……あー、でも、あるのかもなぁ。なにか、目的は」
(……!)
目的。
彼の目的がわかれば、策を立てることは容易くなる。
(……けれど、)
(そう考えることは、『孔明』として、正しいだろうか)
(……いや、師匠なら)
(異邦の客人に、興味を示さないはずが無い。だから、大丈夫だ)
「でも、俺は、それを知らないんだ」
「……え?」
「彼は、やりたいことがあると言っていたよ。そしてそれをやることは、俺の役に立つだろうって」
「……」
「だから俺は彼を軍に迎えたんだ。確かに彼には先見の明があったし――嘘は、ついていないみたいだったからね」
孟徳は、嘘をついているだろうか。
孟徳が、目的を知らぬまま、彼を軍に加えるなどということがありえるだろうか。
(……有り得る、だろうな)
(主が見つかるまで、という酷い条件を呑んだことすらある男)
(異邦人に対して、興味を持ったという理由だけで、それくらいのことはするだろう……)
「やりたいこと、ですか……」
「うん。それがね、すこし面白いな、と思って」
「……?」
「ねぇ。君は何のために、玄徳の元に居るの?」
「……それなら、」
お答えしたはずです、と、言いかけて。
問いが違うことに、気がついた。
『なんで、玄徳のところに仕官したの?』
あのときの問いは、こうだった。
今の問いは――何故、ではなく、何のために。
理由ではなく、目的を問うている。
何のために。
それは、何故、よりも余程、花にとって答えにくい質問だった。
(――『孔明』は、そうするから)
(……なんて、言っても、仕方が無い)
花が本当に『孔明』であれば――答えなど、幾らでもあるのだろう。
花の知る『孔明』は、各地を訪ね、民の暮らしを知り、――だからこそ、徳を尊ぶ主を選んだ人だった。
けれど、花は。
「……、みんなね」
「……、」
答えに窮した花に、不思議な色の目を向けて――それは、なんだか優しいように感じられる視線だった――孟徳は言った。
「大体みんな、こう言うんだよ。『漢王朝を守るため』とか、『丞相を守るため』とか、『民を守るため』とか」
「……それは、」
そうだろう、と思う。『孔明』の思いとて、最後のもの――『民のため』という言葉に還元できるものだ。思ってから、何故孟徳が彼の言を、『やりたいことがある』という彼の言をおもしろいと思ったのかを、理解した。
「彼は、自分のために、俺のところに来たって言ったんだよね。彼にとっては俺も、利用するものの一つなんだろうな、と思ったら、面白くてさ」
それもまた、そうだろう。
彼にとって此処は仮初の国で、彼が何処まで本の仕組みに気付いているかは知らないが、目的を果たしたら去るだけの世界だ。その国のなにかのために、という考えなど、浮かんでくるはずも無い。
思わず納得してしまった花を眺める孟徳の視線、その色に、花は気付かない。
気付かずに、ふと、それを面白いと思う孟徳は、一体なんのためにこうしているのだろう、という疑問を抱いた。
「……貴方は、」
口にしてから、同じ流れだと気がついた。
問われ、問い返し――ならば、同じ答えが返ってくるかもしれない。けれど言いかけた言葉を止めることは、出来なかった。
「なんのために?」
「……、」
孟徳は柔らかな笑みのまま、花を見つめた。あの時と似た微笑み。
「教えないよ」
同じ答え。……そうだろうな、と思ったところで、孟徳は笑みを深くした。
「って、言いたいところだけど。……嘘をつくのを躊躇ってくれたから、お礼に、教えてあげるよ」
「……え?」
「俺はね、なにかの目的のためになんて、そんな高尚なこと、できないんだ」
やりたいことも、守りたいものも、なんにもないんだ。
孟徳はあどけないとすら言える笑みとともにそう言った。
それが嘘ではないと、判ってしまう。
判ってしまうことに、驚いた。
(ああ、この人は)
(……この人は……)
「さて、……次は、本当のことを言ってくれるようになるのかな」
呆然と孟徳を見上げる花の前で、孟徳は立ち上がった。笑みは、いつものどこか掴みどころの無いものに戻っている。
けれど花は、動くことが出来なかった。
「疲れさせちゃったかな? ……おやすみ、孔明」
いい夢を。
孟徳の言葉に、止めを刺されたような気がした。
いい夢なんて、見れない。
(彼の前で、)
(『孔明』になんて、なれない)
今更に花は、自分が最初から絆されていたことに気がついて、愕然とした。
彼に自ら問いを投げたあのときから――彼自身に興味を持ってしまったあのときから、もう、花は、孔明でなど居られなかったのだ。
(師匠、)
(師匠、ごめんなさい)
(……師匠の居場所を奪ったのに。なのに私は)
(あの人を、曹孟徳を。……どうしようもなく知りたいと、そう、思ってしまう……)
野心もなければ忠心もなく。
欲望もなければ愛情も無い。
あんな笑顔で、そう言いきってしまえる彼を――救いたいと、どうしようもなく。
(花孔明、母性に目覚める)(←台無し)