姫金魚草
三国恋戦記中心、三国志関連二次創作サイト
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09 罪を贖う
(知らぬ世界)
森の中にいた。
その森が何処なのかは、直ぐにわかった。見知った場所だったからだ。自分は恐らく、この手の森が好きなのだろう。長らく住んでいた隆中の庵も、こんな場所にあった。
亮は腕を硬く握ったまま、辺りを見渡している。彼は此処がどこだか知らぬだろう、と口を開こうとしたところで、掴んだ腕を引かれた。
「移動しましょう。日が翳る前に街へ出たい」
「え、……此処が何処だか、わかるの?」
目を瞬く。亮は笑った。
今までの笑みと違う。
「ええ」
亮は唯それだけを言って、手を引いたまま歩き出した。一人で歩ける、といいそうになった瞬間に、握る力を強められる。
「……亮?」
亮は笑う。
ぞくりとするような何かを孕んだ目だった。一晩で何十年もの歳を経たかのように、その目は暗く深い色をしていた。
この目の色を、知っているような気がした。諦めたような、疲れたような、そしてどうしようもなく罪に塗れた黒い瞳。
亮は道を知っている者の迷い無い足取りで、山を降りた。街道に出てからも、方向に悩むことは無い。片手に本をしっかりと抱いて、腕を掴んでいると歩きづらいからか握っているのは手に変わった。
何処へ行くの、と。
訊ねたくて、訊ねられなかった。その答えを知っている気がして、聞かないほうがいいことをわかっていた。
街は、知っている景色とまるで同じ風体をしていた。そしてそれが異常であることも、わかっていた。
この街はもう、失われた筈の街だった。すくなくともこのように、記憶のままである筈がない。
「つかぬことをお伺いしますが」
亮が道行く者を捕まえて幾つかの質問をした。場所と時代と近頃の出来事と。旅人らしい男はその全てに答えて、亮が驚く様子も無く頷くのをぼんやりと見ていた。最後に宿の場所を確認のように訊ねて、懐に入っていた路銀を数えながら宿をとった。
「一部屋で構いませんか」
亮が孔明に確認したのはそれだけで、先のことも判らない状況で無駄金を使う余裕が無いことはよく判っていたから、頷いた。
質素な宿には辛うじて蒲団を敷く空間が二人分あるだけだ。漸く二人ゆっくりと向かい合って座って、状況の整理のために口を開いた。
「ここは、……泰山郡だね」
「そのようですね」
「そんな事を言って、最初から気付いていたでしょう」
亮は何事か思案する眼差しで、まともにこちらの言葉に答える気が無いように見えた。ここは孔明の育った地、孔明の父が丞を勤めていた泰山郡だ。
しかしこの地は、戦乱で荒れてしまったはずだった。孔明の知ったままの姿である筈がない。
「黄巾がどうこうと言ってたね、あの旅人は。……つまり今は、どういう事情かはわからないけど、私達の居た時代より過去ということかな」
黄巾の乱よりおよそ十年。つまりここは、十年と少し前ということになるのか。……不可思議な話ではあるけれど、現実を見れば納得せざるを得ない。
「……亮。その本は、なんなの」
亮が口を開く気配が無いから、ついに糾弾するような口調になった。ずっと俯いて本の表紙を眺めていた亮が、やっと顔を上げる。困ったように微笑んで、亮は答えとは違うことを唇に乗せた。
「思い出さない?」
「……え?」
「そっか。……思い出さないのか。どうすればいいのかな」
亮の口調から敬語が消えている。
何故か、違和感はなかった。最初からこうであるべきだったと、思うほどに。
「……その本は、なに」
なにか空恐ろしいような気がして、声が震えた。亮は唇を歪める笑い方で、冷たく笑った。
「ボクが聞きたいくらいだけどね。……おそらくは、願いを叶えてくれる、魔法の本なんだろうね」
とてもそんないいものについて語っているとは思えない顔で、亮は言った。そしてそれ以上は、孔明が何を訊ねても、口を開くことは無かった。
眠りの浅い夜を超えて、目を擦りながら身体を起こす。
亮は何も言わずに床に布を広げて横になった。孔明を床に寝せるという選択肢も、寝台を共にすると言う選択肢も、最初から用意されていないとでも言いたげな自然さで。口を挟む機を逸して受け取った暖かな寝床で、しかしよく眠ることは出来なかった。
「……亮、何処行ったのかな」
着物を調え、髪を軽く結って部屋を出る。宿の主人に挨拶をすると、「旦那さんなら用事があるといって外に出て行ったよ」と声をかけられた。
「旦那、……」
ではない、と否定したところで、ならば男女二人が一つの部屋をとって旅をしていることをどう説明すればいいのか分からない。素直に礼を言って、とりあえず探しに行くことにした。
(……十年前の、……泰山郡)
街を歩けば、懐かしい、という言葉だけでは済まされない、圧倒的に胸にくる何かがあった。なんと言ってもここは――故郷、なのだった。そして孔明の生きる時代には、とうに、失われてしまっている。
行く場所など、ひとつしかないことを、知っていた。表通りをゆっくり噛み締めるように歩き、立派な塀に囲われた屋敷に辿り着く。直ぐにでも壊れてしまうなにかに触れるように、ざらりとした土壁に触れた。
(……ああ、ここは)
今も形をとどめているだろうか。それすら知れぬ、生まれ育った家は、記憶と寸分違わぬ形をしていた。この向こうに、今は亡き父母と――幼き日の自分が、いる。
会いたいと思うことが、間違っていると知っていた。許されることではない、と思うし、自分に会う、というあまりに非現実的な出来事が、どのように現実として現れるのかがわからない。
それでも。
(ああ、……おかしいな)
まさか自分に、郷愁なんていう感情が存在するだなんて、思わなかった。そっと壁から手を離して、足を踏み出す。
少し、顔を見るだけだ。誰にとも無く言い訳をして、門のほうへ歩いていく、と。
「兄上、待ってよ」
「亮が遅いのが悪い。置いていくよ」
はしゃいだ声と共に、子供の駆ける軽い足音が聞こえてくる。門から飛び出してきた二つの小さな影は、こちらに気付いて慌てて足を止めた。
「ご、ごめんなさい!」
ぶつかりそうになったことにだろう。年上の方が慌てて頭を下げ、小さいほうもそれにつられるように頭を下げる。
「……亮……?」
呆然とした声が、出た。
年上のほうは、知っている。細面で穏やかな顔。今見ると随分印象が違うが、同じ人物だということはわかる。伊達に二十年以上兄妹をやってきたわけではないのだ。後半は殆ど会うことは無かったとはいえ。
しかし――だとしたら、もう一人の子供のことも、自分は、よく知っていなければならないはずだった。
意志の強そうな黒い瞳、同じ色の艶やかな髪。それは余りに想定と違っていて、そして余りに、誰かに似ていた。
唐突に名を呼ばれてきょとんとしている『少年』――亮と呼ばれた少年は、ここにいるこの年頃の子供は、『諸葛孔明』の、はずだった。何度瞬きをしても、目の前の姿が変わることは無い。
「……亮、」
諸葛亮――孔明。
口の中で喘ぐように呟いた瞬間に、脳裏が爆発するように煌いた。奔流。目まぐるしく身体を駆け抜けていく感覚が膨大で、外に向ける意識が残らずにいつの間にか目を閉じていた。ぞわぞわと這い上がって抜けていく景色、景色、景色。
景色。
(――師匠……!)
「……ねーちゃん? おねーちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「……っ」
気付けば、道にへたりこんでいたようだった。二人の子供が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
思い出した。
思い出したのだ。
孔明は自分の身体を抱きかかえるようにしながら、立ち上がった。
(彼と最初に出会ったときに――痛みを感じたのは)
(あの痛みは――これだったのだ)
孔明はたしかに、その痛みの名前を、よく、知っていた。
そして――二人の子供を心配させぬように笑いながら、孔明は、この痛みを――この罪をどんなことをしてでも贖うと、決めていた。
その森が何処なのかは、直ぐにわかった。見知った場所だったからだ。自分は恐らく、この手の森が好きなのだろう。長らく住んでいた隆中の庵も、こんな場所にあった。
亮は腕を硬く握ったまま、辺りを見渡している。彼は此処がどこだか知らぬだろう、と口を開こうとしたところで、掴んだ腕を引かれた。
「移動しましょう。日が翳る前に街へ出たい」
「え、……此処が何処だか、わかるの?」
目を瞬く。亮は笑った。
今までの笑みと違う。
「ええ」
亮は唯それだけを言って、手を引いたまま歩き出した。一人で歩ける、といいそうになった瞬間に、握る力を強められる。
「……亮?」
亮は笑う。
ぞくりとするような何かを孕んだ目だった。一晩で何十年もの歳を経たかのように、その目は暗く深い色をしていた。
この目の色を、知っているような気がした。諦めたような、疲れたような、そしてどうしようもなく罪に塗れた黒い瞳。
亮は道を知っている者の迷い無い足取りで、山を降りた。街道に出てからも、方向に悩むことは無い。片手に本をしっかりと抱いて、腕を掴んでいると歩きづらいからか握っているのは手に変わった。
何処へ行くの、と。
訊ねたくて、訊ねられなかった。その答えを知っている気がして、聞かないほうがいいことをわかっていた。
街は、知っている景色とまるで同じ風体をしていた。そしてそれが異常であることも、わかっていた。
この街はもう、失われた筈の街だった。すくなくともこのように、記憶のままである筈がない。
「つかぬことをお伺いしますが」
亮が道行く者を捕まえて幾つかの質問をした。場所と時代と近頃の出来事と。旅人らしい男はその全てに答えて、亮が驚く様子も無く頷くのをぼんやりと見ていた。最後に宿の場所を確認のように訊ねて、懐に入っていた路銀を数えながら宿をとった。
「一部屋で構いませんか」
亮が孔明に確認したのはそれだけで、先のことも判らない状況で無駄金を使う余裕が無いことはよく判っていたから、頷いた。
質素な宿には辛うじて蒲団を敷く空間が二人分あるだけだ。漸く二人ゆっくりと向かい合って座って、状況の整理のために口を開いた。
「ここは、……泰山郡だね」
「そのようですね」
「そんな事を言って、最初から気付いていたでしょう」
亮は何事か思案する眼差しで、まともにこちらの言葉に答える気が無いように見えた。ここは孔明の育った地、孔明の父が丞を勤めていた泰山郡だ。
しかしこの地は、戦乱で荒れてしまったはずだった。孔明の知ったままの姿である筈がない。
「黄巾がどうこうと言ってたね、あの旅人は。……つまり今は、どういう事情かはわからないけど、私達の居た時代より過去ということかな」
黄巾の乱よりおよそ十年。つまりここは、十年と少し前ということになるのか。……不可思議な話ではあるけれど、現実を見れば納得せざるを得ない。
「……亮。その本は、なんなの」
亮が口を開く気配が無いから、ついに糾弾するような口調になった。ずっと俯いて本の表紙を眺めていた亮が、やっと顔を上げる。困ったように微笑んで、亮は答えとは違うことを唇に乗せた。
「思い出さない?」
「……え?」
「そっか。……思い出さないのか。どうすればいいのかな」
亮の口調から敬語が消えている。
何故か、違和感はなかった。最初からこうであるべきだったと、思うほどに。
「……その本は、なに」
なにか空恐ろしいような気がして、声が震えた。亮は唇を歪める笑い方で、冷たく笑った。
「ボクが聞きたいくらいだけどね。……おそらくは、願いを叶えてくれる、魔法の本なんだろうね」
とてもそんないいものについて語っているとは思えない顔で、亮は言った。そしてそれ以上は、孔明が何を訊ねても、口を開くことは無かった。
眠りの浅い夜を超えて、目を擦りながら身体を起こす。
亮は何も言わずに床に布を広げて横になった。孔明を床に寝せるという選択肢も、寝台を共にすると言う選択肢も、最初から用意されていないとでも言いたげな自然さで。口を挟む機を逸して受け取った暖かな寝床で、しかしよく眠ることは出来なかった。
「……亮、何処行ったのかな」
着物を調え、髪を軽く結って部屋を出る。宿の主人に挨拶をすると、「旦那さんなら用事があるといって外に出て行ったよ」と声をかけられた。
「旦那、……」
ではない、と否定したところで、ならば男女二人が一つの部屋をとって旅をしていることをどう説明すればいいのか分からない。素直に礼を言って、とりあえず探しに行くことにした。
(……十年前の、……泰山郡)
街を歩けば、懐かしい、という言葉だけでは済まされない、圧倒的に胸にくる何かがあった。なんと言ってもここは――故郷、なのだった。そして孔明の生きる時代には、とうに、失われてしまっている。
行く場所など、ひとつしかないことを、知っていた。表通りをゆっくり噛み締めるように歩き、立派な塀に囲われた屋敷に辿り着く。直ぐにでも壊れてしまうなにかに触れるように、ざらりとした土壁に触れた。
(……ああ、ここは)
今も形をとどめているだろうか。それすら知れぬ、生まれ育った家は、記憶と寸分違わぬ形をしていた。この向こうに、今は亡き父母と――幼き日の自分が、いる。
会いたいと思うことが、間違っていると知っていた。許されることではない、と思うし、自分に会う、というあまりに非現実的な出来事が、どのように現実として現れるのかがわからない。
それでも。
(ああ、……おかしいな)
まさか自分に、郷愁なんていう感情が存在するだなんて、思わなかった。そっと壁から手を離して、足を踏み出す。
少し、顔を見るだけだ。誰にとも無く言い訳をして、門のほうへ歩いていく、と。
「兄上、待ってよ」
「亮が遅いのが悪い。置いていくよ」
はしゃいだ声と共に、子供の駆ける軽い足音が聞こえてくる。門から飛び出してきた二つの小さな影は、こちらに気付いて慌てて足を止めた。
「ご、ごめんなさい!」
ぶつかりそうになったことにだろう。年上の方が慌てて頭を下げ、小さいほうもそれにつられるように頭を下げる。
「……亮……?」
呆然とした声が、出た。
年上のほうは、知っている。細面で穏やかな顔。今見ると随分印象が違うが、同じ人物だということはわかる。伊達に二十年以上兄妹をやってきたわけではないのだ。後半は殆ど会うことは無かったとはいえ。
しかし――だとしたら、もう一人の子供のことも、自分は、よく知っていなければならないはずだった。
意志の強そうな黒い瞳、同じ色の艶やかな髪。それは余りに想定と違っていて、そして余りに、誰かに似ていた。
唐突に名を呼ばれてきょとんとしている『少年』――亮と呼ばれた少年は、ここにいるこの年頃の子供は、『諸葛孔明』の、はずだった。何度瞬きをしても、目の前の姿が変わることは無い。
「……亮、」
諸葛亮――孔明。
口の中で喘ぐように呟いた瞬間に、脳裏が爆発するように煌いた。奔流。目まぐるしく身体を駆け抜けていく感覚が膨大で、外に向ける意識が残らずにいつの間にか目を閉じていた。ぞわぞわと這い上がって抜けていく景色、景色、景色。
景色。
(――師匠……!)
「……ねーちゃん? おねーちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「……っ」
気付けば、道にへたりこんでいたようだった。二人の子供が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
思い出した。
思い出したのだ。
孔明は自分の身体を抱きかかえるようにしながら、立ち上がった。
(彼と最初に出会ったときに――痛みを感じたのは)
(あの痛みは――これだったのだ)
孔明はたしかに、その痛みの名前を、よく、知っていた。
そして――二人の子供を心配させぬように笑いながら、孔明は、この痛みを――この罪をどんなことをしてでも贖うと、決めていた。
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