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姫金魚草

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08 罪を知る

(記憶)

「亮殿、でしたな」
 孫仲謀の説得を終えて、夜に宴を開く、と言う魯子敬の言葉に、一旦先程の部屋へと戻る途中。かけられた穏やかな声に、振り向く。
 声と違わぬ穏やかな顔をした男。見覚えのない顔だった。孔明はなにか怖い顔をしていて、先に部屋に戻ってしまっている。
 訝しげな顔をしていたのだろう。男はにこりと笑って、頭を下げた。
「諸葛子瑜と申します。妹が世話になっているようですね」
「諸葛、」
 諸葛瑾。言わずと知れた孔明の兄だ。亮は慌てて頭を下げた。
 こちらで話しませんか、と、男は穏やかな声で言った。断る理由は無い。思惑通りに事が運んで、気分が高揚していたというのもある。連れて行かれたのは城内の庭のようなところで、色鮮やかな花の中に茶席用の机と椅子が設えられていた。
「今、茶を運ばせます」
 襄陽とは違う調度に、異国を感じる。州が違えば国が違う、と言っても過言ではない。中華は、広いのだ。
「先程は、お見事でしたな」
「いえ、……仲謀様は、私などが何も言わずとも、判っていたのだと思います」
 孔明に口を挟ませず、一人で仲謀に相対したのは、やはり孔明を戦場に係わらせたくない想いが強かったからだ。亮は充分に、そして孔明よりも恐らく気軽に戦争を演じることが出来る。この思いが勝手な感傷であり、ただの押し付けだとは知っていた。
「私は、少し、安心しました」
 子瑜はそんなことを言って、笑った。なにを指してかわからずに、次の言葉を待つ。
「あの子は、不思議な子でしょう」
 あの子、と言うのが、誰のことかは直ぐに判った。孔明。そういえば目の前の男は、彼女の兄であるのだった。童顔で丸顔の彼女と、細面の彼はそれこそ奇妙なほど、似てはいないが。
「話を聞いてもらっても、構いませんか。お弟子さんにこんなことを話したと知られては、あの子に怒られてしまうかもしれませんが」
 話、とは、なんだろう。子瑜と孔明は確かに兄妹ではあるが、かの虐殺の徐州から逃げ延びて以来、道は分かたれているはずだった。この世界での年代がわからないので幾つの頃とは知れないが、二人ともまだ歳若い。やっと青年というくらいのときには、もう二人は一緒にはいなかったはずだ。
 訝りながら頷くと、子瑜はありがとうございます、と笑った。そして。一口茶を飲んでから、話を始めた。

 他愛も無い、話だった。
 けれどそれは、亮にとって、全てを悟らせるに充分すぎる、話だった。

 安心しました、と。
 諸葛子瑜は最後にもう一度、そう言った。愛情深い兄の眼差しで。
 孔明のいるはずの部屋に戻る足取りは、どうしても重くなった。子瑜の語ってくれた話は、本当に、他愛のないものだった。彼らが過ごした子供時代と、徐州から逃げ延びた話と、こうしてばらばらの道を選ぶことになった理由と。
「……あの子がすっかり、あんなふうになってしまったのは、おそらく、私達のせいなのです」
 子瑜は溜息と共に言った。
「今になってやっと思います。私達はあの子から、普通の幸せとでも言うべきものを奪ってしまったのだと。そしてそれがどうしてだかも、今となってはわからないのです」
 普通の幸せ、という言葉は、乱世において余りに不釣合いであるような気もしたし、言われて見れば、と妙に納得するような気分になるものでもあった。
「だから私は、嬉しいのですよ。あなたという弟子が居るということが、彼女にとって、喪われたはずの幸福になる――そういうことを、身勝手にも、願ってしまっているのです」
 過分な期待だ。
 彼が亮に何を願うのかは余りに明白で、それは亮が、この世界の人間ではない亮が、一時の旅人である亮が、決して果たせないことであるはずだった。
 口の中が乾くような感じがあって、どうにも声が出ない。首を振ることもまた出来なかった。こんな風に純粋な思いを、むげに否定するようなことは、出来なかった。
 それ以上に。
 亮もまた、同じことを願っていないとは、言えないのだった。普通の幸せが、彼女には相応しい。それはやはりどうしても、伏龍という呼び名が、彼女が孔明であるということが、余りにも歪であるからだ。子瑜の言葉は、その違和感が、亮だけのものでないことを教えてくれた。

 そして。
 最後に彼は、言ったのだ。 
 そうして亮は、全てを、思い出した。

 それはまさしく自失という言葉が相応しく、けれど状況は亮に失わせ組み立てなおすだけの時間を与えてはくれなかった。
 見覚えのある光を部屋に見た。明らかに自然のものではなく、さりとて人工の光でもありえない、超自然的な輝きの元を、亮は確かに知っていた。
 部屋に飛び込むと、本を手にした少女が見えた。亮の目にはもう、孔明は、ただの少女にしか見えなかった。光り輝き、その横暴な力を今にも発揮せんとしている本を目の前に、途方に暮れたような顔をしている。
 腕を掴んだ。
 細い腕だった。亮は自分が泣いてしまうような気がした。腕を掴んだ亮を驚いたように見て、それから少女は、笑ったのだ。それは微かで、本人も自覚していなかったのかもしれない。
 亮を見て、安堵したとでも言うのか。
 彼女を詰ってしまいたかった。どうしてそんなに愚かなのだと。どうして全てを、忘れてしまったのかと。そして全てを曝け出して、思うままに詰られてしまいたかった。
 この罪の償い方が、わからない。
 光が二人を包んで、全ての意識を混濁させていく。ただ彼女の手を強く握る。離さないように離れないように。そして亮は、どんな風にでも、この罪を償おうと決めていた。



  

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