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姫金魚草

三国恋戦記中心、三国志関連二次創作サイト

   

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07 光

(加速しろ)

 揚州は豊かな土地だ。
 しかし、人工の面では、圧倒的に長江以北に劣る。文化の中心はずっと黄河周辺にあったのだから、仕方の無い話ではある。
 そして今、豪族の跋扈する地であった揚州をどうにか纏め上げて一つの国とせんとする、揚州の若い主がいる。
 その名は、孫仲謀。父と兄の遺志を継ぐ男には、父の勇猛さや、兄の戦の才覚はない。
 しかしその代わり彼には、父と兄が持っていなかったものがある。揚州は若い主の下で、確かに富み栄えているように見えた。

 出迎えたのは兄ではなく、小さな男だった。
 魯子敬。優秀な男だと聞いていたが、残念ながら風貌からはとてもそうとは思えない。子供並の身長の、穏やかな顔つきの男だった。
「孔明です。こちらは、弟子の亮」
「ほっほっほ、お待ちしておりましたぞ。どうぞこちらへ」
 通された部屋は、南の調度が鮮やかな、洒落た小部屋だった。
「仲謀様の謁見の支度が整うまで、しばしお待ちくだされ。茶を」
 傍らの侍女に子敬が言付ける。痛み入ります、と頭を下げて、亮と二人、椅子に腰掛けた。
「随分な歓待ですね」
「子敬殿はこちら側、つまり、抗戦派だからね。私達が彼の主を説得することは、彼の意図にも添うことだから」
「成程。……しかし、随分と小さい男でしたね」
「……それは……なんでだろう」
 茶を啜りながら、他愛もないことを話していると、侍女が二人を呼んだ。仲謀様がお待ちです、と、涼やかな声。
 気負いは無い。出来ることを、為すだけだ。出来るとわかっていることを為すのに、なんの気負いが必要だろう?
 傍らの亮を見る。何か考えるような顔をしている横顔が、ぴんと張り詰めて冷たい。
 荊州で再会して以来、亮は少し、雰囲気が変わったように思えた。なにが、と具体的に言えるわけではないが、このように、一人深く考え込んでいることが多い気がする。
 異邦の者だ。郷愁を感じているのだろうか、と思ったが、そんな穏やかで切ないなにかではないことは、直ぐに知れた。
 冷たい眼差し。世界の深淵を覗き込もうとするような、冷徹で鋭い眼差しだ。
「……緊張してる?」
 そうではないと知りながら、問いかけた。そうかもしれません、と笑う亮から、流石に冷たい色が消えてほっとする。
 (……ほっとする?)
 自分の気持ちが判らずに、少し、首を傾げる。
 亮が何を考えているか知りたい、なら、判る。けれどそんなことは、欠片も思わなかった。
 ただ、亮が、怖い顔をしているのが、いやだった。そんな顔をしてみる価値が、この世界にあるとは思えなかった。彼がそんなふうに気に病む価値が、この世界にあるとは、思えなかったのだ。
 亮のことばかり、考える。そんな不敬な孔明の目の前で、孫仲謀へと続く扉が、開かれた。
 
 * * *

 納得がいかない。
(……って、何を思っているんだ、私は)
 慌てて頭を振る。
 孫仲謀の説得は、孔明が知っているよりよほど簡単に、成功した。
 成し遂げたのは、今はふらりと何処かに行ってしまった、『弟子』だ。
(……弟子、なのに)
 ひりっと、なにか胸が焼け付くような気分になる。食えない顔の男の、涼しい顔での台詞が、脳裏に閃く。

『どちらが弟子だか、わかりませんね』

「……周公瑾……!」
 唇を噛む。あの男は、孔明の前で、しれっとそんなことを言ったのだ。
 確かに亮は、孔明が驚くほど鮮やかに、孫仲謀を説得して見せた。彼は唯淡々と、現状の整理をして見せただけだ。仲謀を唆すような台詞も、助力を請うようなことも、なにも言わなかった。
 ただ、話の進め方が、余りに巧みだった。仲謀は理解し、同意した。感情を煽り立てられたわけでもなく、ただそれが最善の策だという理由で。
 孔明が考えていた策は、いくつかあった。例えば、孫仲謀が気にしているはずの、孫伯符の名を出すであるとか。おそらくその名には周公瑾も反応するはずで、挑発するようにすれば、乗ってこないはずは無いと思っていた。
(……そんな風にして。彼がただ、曹孟徳へ降ることさえなければいいと、思っていた。たしかにそれで、充分なのに)
 亮もそれは、考えたはずだ。一番容易い方法だと、知っていたはずだ。
(……それなのに、亮は。……たしかに亮は、私よりよほど、……)
 ……よほど、何だというのだ?
 ひりひりと、引っかくような何かがある。周公瑾の台詞が、受け流せなかった。優秀な弟子だと言われたようなものだ。ただ笑って喜べばよかった。
 そう出来なかったのは、何故だ?
(……私は、何を考えてるんだろう)
 これじゃまるで。
 まるで――
(……駄目だ)
 頭を振る。もやもやとしたこの感情が、悪いものだと知っていた。よくない。よくないものだ。
 ふと。
 机の上に、亮の本が、置き放してあるのに気がついた。
 亮がひどく、大切にしているものだった。彼の持つ、唯一の、故郷のものだ。大切にするのも、無理は無い。
(……、そう、彼は、異国のものなのに)
 ひりつく心が、痛みを感じるほどになる。堪えがたく、思わず――ほんとうに思わず、亮の本を、手にとっていた。
 明確な意思を、持っていたわけではない。ただ、この本が、気になっただけだ。
 例えば、彼の才覚の一端が、この異国の書にあれば、少しは私も慰められる。そんな風に、思っただけで。

 ぱらり、と、頁がめくれる。

(――っ!?)
 光に、包まれた。何だこれは。何が起きている。
「……師匠!」
 亮の声が聞こえる。慌てて本を閉じようとする、暇も、もう、無かった。
 眩しくて、とても目を開けていられない。腕に、何かが触れる。掴まれたのだ、と、思った。亮の強い手。
 それだけで、何故かとても、安堵した。

(『汝、繰る者であり、綴る者』)

 最初の頁の目に入った一文が、閃いては消える。身体が浮き上がるような感覚があって、それでもただ、亮が放さないでいてくれるのがわかったから、どうして何も、怖くはなかった。














(物語を速める)

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