姫金魚草
三国恋戦記中心、三国志関連二次創作サイト
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弔いの庭 (「願わくは」の続き?)
(勝手にibu様に捧ぐ)
(花ちゃんも孟徳も出てこない、という、まさに誰得話。)
(花ちゃんも孟徳も出てこない、という、まさに誰得話。)
夜の庭は、哀しいほどに静かだった。
時折夜風で葉が音を立てるだけの、あまりに寂しい静寂。美しく整えられた花々は、本来であれば満月の下でたおやかに誇らしげに咲いているはずだった。しかしいまはその色も、どこか哀しく褪せて見える。
主を悼んでいるのだ、と思うのは、感傷が過ぎるだろうか。男は一人笑って、庭に誂えられた小さな茶席に腰をかけた。
この庭の主はよくこの椅子に座り、のんびりと繕い物をしたり、書簡を読んだりしていたものだった。そして自分はそんな姿を見ているのが、この上なく好きだった。
主自らの手で、控えめに美しく整えられた庭。今はまだ彼女の面影を宿した庭はしかし、やがて姿を変えていくのだろう。
悼みにきたのだ、と、知っていた。
忙殺される日々を終え、やっと、この時間が取れた。これは、痛みに向き合う時間でもあった。向き合わなくてはならなかった――受け入れなくてはいけなかった。彼女はもう、どこにもいない。
息をついたときに、かさり、と、葉が鳴った。風が立てるにしては大きいそれは、来訪者を知らせていた。顔を向ける。
「……なんだ。お前も来たのか」
「お邪魔をしましたか、兄上」
ひょろりと細い風貌をした弟は、少しやつれた顔を隠そうとするように、不似合いなほど大きく笑った。苦笑とともに、いや、と首を振る。
「邪魔も何も。ここは誰の訪れも拒まぬ庭だ」
そういう主の方針は、彼女が居なくなったからと言って、変わるようなものではない。すると弟は、それはよかった、と笑って、茂みの向こうに声を掛けた。
「だそうだよ。そう言った以上、兄上も拒まれまい」
「……何? ……! な、お前」
かさり、と小さな音とともに姿を現した二人目には、流石に目を見開かずにはいられなかった。
「大兄様」
庭の主によく似た顔を、青白くやつれさせた少女。
彼女はとても、ここにいていいような身分ではなかった。それどころか、こんな夜更けに、出歩くことさえ許されないはずだった。
「子建、お前」
「兄上が」
手引きをしたのだろう弟に厳しい声を向けると、疲れたように笑う弟は、希うような口調で言った。
「何も言わなければいい話です」
「そういう問題では、」
「大兄様! 私が、……私が小兄様に、無理をお願いしたんです」
言い募る妹の瞳が、強い意思を感じさせる輝きを持って、こちらを見据えた。その瞳はあまりに、この庭の主に似ていた。
「……」
ゆっくりと、息を吐く。
諍いは、主の好まざるところだ。
「言ってしまったからな。……誰の訪れも拒まぬ庭だと」
呟くように言って、視線を庭へと投げる。そもそも自分に、妹の行動をとがめだてする権利があるのかは、妖しいところだ。この夜の邂逅は、追悼の為の一夜の夢だ。
そんな意図が伝わったのだろう。妹はぎこちなく笑って、小さく息を吐いた。
――静かだった。
それぞれがそれぞれに、抱いている思いがあった。沈黙の方が、言葉よりも雄弁だ。そんなこともまた、あるのだった。
しかし思いはまた、共有されることで、満たされる。最初に口を開いたのは、普段は決して多弁ではなく、筆と吟にばかり思いを乗せることに慣れている弟だった。
「夢のようです」
何がと、問うことは出来なかった。
「夢だったら、よかったのに」
溜息のような言葉に、怒涛のようだった数ヶ月が浮かんでは消える。夢だったら良かった。夢でも可笑しくないくらいに、慌しい日々は既に何処か遠かった。
「夢じゃないわ。……夢のはずが無い」
対して、妹は気丈だった。震える唇に力をこめて、噛み締めるようにそう言った。
数ヶ月前。病ではなく、単に老いから来る不調により臥せっていた父が死んだ。
余りに偉大だった父は、母の優しい手を握ったまま、安らかに逝った。それは、覇者としては静謐に過ぎるほどの幸福な死であるように見えた。父は老いた口元に、柔らかな笑みを浮かべていた。
眠るような最期。そんな言葉が相応しい姿だった。
葬儀は国を挙げての盛大なものになった。全ての民が喪に服した。父は苛烈な為政者だったが、民は確かに、父の手腕の恩恵を受けていることを、理解していた。
多くのものが彼を畏れていた。同じくらいに、彼を敬っていた。
父の死は自分にとって、当然ながら大きな出来事だった。しかし自分の立場は、そこで衝撃を受けることを、許されるようなものではなかった。葬儀の段取りと、父亡き後の政についてのあれやこれやは、当然のように降りかかってきて、個人的な感傷に浸る暇も、回りを気に掛ける暇も、残念ながら存在しなかった。
そうして負われて過ごしている最中に――母が倒れたと、報が入った。
驚き駆けつけた先で、母は驚くほどに細く、小さくなっていた。
「……連れて行かれてしまう、と、思った。あのとき」
ぽつり、と呟くと、弟と妹が、あわせてこちらを見た。
「母上が倒れたと聞いて、駆けつけたときに。ああ、父上は連れて行かれてしまうおつもりなのだ、と、……わかった」
母は父よりも随分と若く、父の葬儀のときも普段と変わらぬ凛とした顔をしていたけれど、自分はそれ以来、母の顔を見ていなかった。
母はこの庭で、この館で、父と過ごしたこの場所で、緩やかに穏やかに、生気を失っていっていたのだとその時気付いた。
眩暈がしたのだ。父の執着を思い知るようで。後年は随分と穏やかな夫婦だった二人の、歩んできた道を思い知るようで。
父は確かに、母を何処までも連れて行ってしまっても、可笑しくなかった。そして自分にはそれを止める手立てが、一つとして存在しなかったのだ。
「大兄様はほんとに、母様がお好きなんだから」
妹がどこか、呆れたように言った。僅かに眉を上げて妹を見やると、母によく似た顔に苦笑を浮かべて、妹は言った。
「私は、母様が着いて行ってしまわれるのだと、思ったけれど」
連れて行かれてしまう。
着いて行ってしまう。
その二つは、余りにも違う響きを持っていた。
「私ね、……嫁ぐ時に、母様に聞いたの。どうして父様と結婚したのですか、って」
そうして妹が語り始めたのは、自分が今まで聞けずにいた話だった。父と母の馴れ初め、という、聞くに聞けずにいた話。生家を持たぬ母が異国の出だということしか、知らなかった。
妹はゆっくりと語った。その全てが、母の話だと聞かされていなければ、笑ってしまうように常軌を逸していた。
母は異国から来てはじめ、劉玄徳のもとに居たというのだ。諸葛孔明の弟子として。
諸葛孔明、今は益州の地で劉玄徳の遺児を擁して孤軍奮闘している男は、確か母より幾つか上という程度だった筈だ。異国のものである母と伏龍と呼ばれた男がどう出会ったのか、そこまでは妹も聞いていないと言う。
そんな母が父と出会ったのは、戦場においてだった。母は玄徳軍を逃がす手筈の最中に川に落ちて、そこを父に助けられたのだという。覇者が少女を自ずから助ける。父であれば、やりかねないような気もした。
母は囚われの身となって、父の傍で日々を過ごした。
「父様はあの性格でしょう。異国の出で、こちらの常識も何も持たない母様が物珍しかったのだろう、って、笑っていたわ」
確かにそれは、あるかもしれない。父はとかく、人の才を愛し、自らの知らないものを好む傾向があった。
しかしそれは、母と父が結婚した理由にはならない。父は一国の丞相であり、正式な儀など結ばずとも、母を囲うことは容易かったはずだ。
「哀しい人だった、と、言ったの」
妹は何か懐かしむような顔で、小さく言った。
「父様は、哀しい人だった、って。それで母様は、放っておけないと、思ったんですって」
その頃、母は恐らく今の妹と同じくらいで――父はもう、三十も近かったはずだ。
一回りも年下の娘に、放っておけないと思われていたという父が、自分の中の父の姿と重ならない。
父は圧倒的で偉大な覇者だった。いつも堂々として、何事にも動じないように見えた。悲しいなどという形容詞が、何処につくかわからない。
思いが顔に表れていたのだろう。妹は笑った。
「大兄様は、父様のことも、お好きすぎます。……荀叔父様に聞いてみるとよろしいのに。若い頃の父上のお話を。父様はただの、寂しがりの子供が、そのまま大きくなったようなお人なんですって」
「……それはすこし、わかる気がする」
弟が傍らで、小さく頷く。
「でもだからこそ、私も兄上と同じ思いだ。寂しいから、連れて行かれてしまったんだろう」
「寂しい人だから、放っておけなかったのよ」
弟と妹が、不毛な言い争いをする。恐らくはどちらも正しく、どちらも誤っているのだろう。
「……確かに俺は、父上と母上を、偶像視しすぎていたかもしれんな」
小さく笑う。
偉大な覇者である父と。
優しく美しい母。
「単純な話だったのだろう。……父と母は、ただもうどうしようもなく別れがたかったのだ、という、それだけの」
自分にとっての父は、哀しい人ではなかった。ただ圧倒的な強者だった。
しかし今の話を聞いて、父をそうたらしめていたのは母だったのだ、と、目覚めるように、気がついた。
そしてまた、母を美しくしめていたのもまた、父だったのだろう。
そういう二人だった。
別れがたく結びついて、もう、一人で居ることが出来ないほどに癒着した、二人だったのだ。
「俺たちが、置いていかれたわけではない」
「……大兄様、そんなこと思ってたの? ほんとに母様大好きなんだから」
「煩い」
庭に、柔らかな風が吹いた。
すこし、恨むような気持ちもあった。けれど全てがもう、終わってしまったことだったし、どうにもならないことだった。そしてその全てを今はゆっくり、噛み締めるように、納得することが出来た。
「きっと、笑っていますよ。……『連れてきてしまった』『着いて来てしまった』と、二人で言い合って、笑っているのだと思います」
弟が笑った。その風景を想像することは容易く、そうして二人が変わらず幸せなのだろうと思うと、こうして悲しんでいる自分たちの方が奇妙であるようにも思えた。
庭にまた、静寂が落ちる。静かな庭は今はもう、悲しみに沈んでいるようには見えなかった。結局は観測者の見方一つか、と笑い、それから、考えていたことを口にする。
「節。……この庭は、お前が継ぐといい」
「……え?」
「帝も、この庭が好きだった」
妹は目を瞬いて、それから、花が綻ぶように自然に、笑った。
「ええ。……あの人と二人で、ここを守るわ」
「……いや、帝には程々にするように言ってくれ」
「わかっていますとも」
新たな庭の主が、此処に残る思いを慈しみ、新しい庭を作っていく。思いとは、命とは、そうして受け継がれていくものなのだろう。
悲しむべき理由がもう、何処にも無かった。ゆっくりと目を閉じる。父と母が微笑んで自分を見ている。そんな夢想も、今であれば現実として、信じられるような気がした。
(長男曹丕、次男曹植、長女曹節な誰得話。曹昂とか黄髭とかその他諸々何処行った?とかは聞いては駄目です。ダメダメ。孟徳の息子娘は多すぎるんだよ。)
(節ちゃんは献帝に嫁いでいます。年齢差は気にしたらだめ。ダメダメ。)
時折夜風で葉が音を立てるだけの、あまりに寂しい静寂。美しく整えられた花々は、本来であれば満月の下でたおやかに誇らしげに咲いているはずだった。しかしいまはその色も、どこか哀しく褪せて見える。
主を悼んでいるのだ、と思うのは、感傷が過ぎるだろうか。男は一人笑って、庭に誂えられた小さな茶席に腰をかけた。
この庭の主はよくこの椅子に座り、のんびりと繕い物をしたり、書簡を読んだりしていたものだった。そして自分はそんな姿を見ているのが、この上なく好きだった。
主自らの手で、控えめに美しく整えられた庭。今はまだ彼女の面影を宿した庭はしかし、やがて姿を変えていくのだろう。
悼みにきたのだ、と、知っていた。
忙殺される日々を終え、やっと、この時間が取れた。これは、痛みに向き合う時間でもあった。向き合わなくてはならなかった――受け入れなくてはいけなかった。彼女はもう、どこにもいない。
息をついたときに、かさり、と、葉が鳴った。風が立てるにしては大きいそれは、来訪者を知らせていた。顔を向ける。
「……なんだ。お前も来たのか」
「お邪魔をしましたか、兄上」
ひょろりと細い風貌をした弟は、少しやつれた顔を隠そうとするように、不似合いなほど大きく笑った。苦笑とともに、いや、と首を振る。
「邪魔も何も。ここは誰の訪れも拒まぬ庭だ」
そういう主の方針は、彼女が居なくなったからと言って、変わるようなものではない。すると弟は、それはよかった、と笑って、茂みの向こうに声を掛けた。
「だそうだよ。そう言った以上、兄上も拒まれまい」
「……何? ……! な、お前」
かさり、と小さな音とともに姿を現した二人目には、流石に目を見開かずにはいられなかった。
「大兄様」
庭の主によく似た顔を、青白くやつれさせた少女。
彼女はとても、ここにいていいような身分ではなかった。それどころか、こんな夜更けに、出歩くことさえ許されないはずだった。
「子建、お前」
「兄上が」
手引きをしたのだろう弟に厳しい声を向けると、疲れたように笑う弟は、希うような口調で言った。
「何も言わなければいい話です」
「そういう問題では、」
「大兄様! 私が、……私が小兄様に、無理をお願いしたんです」
言い募る妹の瞳が、強い意思を感じさせる輝きを持って、こちらを見据えた。その瞳はあまりに、この庭の主に似ていた。
「……」
ゆっくりと、息を吐く。
諍いは、主の好まざるところだ。
「言ってしまったからな。……誰の訪れも拒まぬ庭だと」
呟くように言って、視線を庭へと投げる。そもそも自分に、妹の行動をとがめだてする権利があるのかは、妖しいところだ。この夜の邂逅は、追悼の為の一夜の夢だ。
そんな意図が伝わったのだろう。妹はぎこちなく笑って、小さく息を吐いた。
――静かだった。
それぞれがそれぞれに、抱いている思いがあった。沈黙の方が、言葉よりも雄弁だ。そんなこともまた、あるのだった。
しかし思いはまた、共有されることで、満たされる。最初に口を開いたのは、普段は決して多弁ではなく、筆と吟にばかり思いを乗せることに慣れている弟だった。
「夢のようです」
何がと、問うことは出来なかった。
「夢だったら、よかったのに」
溜息のような言葉に、怒涛のようだった数ヶ月が浮かんでは消える。夢だったら良かった。夢でも可笑しくないくらいに、慌しい日々は既に何処か遠かった。
「夢じゃないわ。……夢のはずが無い」
対して、妹は気丈だった。震える唇に力をこめて、噛み締めるようにそう言った。
数ヶ月前。病ではなく、単に老いから来る不調により臥せっていた父が死んだ。
余りに偉大だった父は、母の優しい手を握ったまま、安らかに逝った。それは、覇者としては静謐に過ぎるほどの幸福な死であるように見えた。父は老いた口元に、柔らかな笑みを浮かべていた。
眠るような最期。そんな言葉が相応しい姿だった。
葬儀は国を挙げての盛大なものになった。全ての民が喪に服した。父は苛烈な為政者だったが、民は確かに、父の手腕の恩恵を受けていることを、理解していた。
多くのものが彼を畏れていた。同じくらいに、彼を敬っていた。
父の死は自分にとって、当然ながら大きな出来事だった。しかし自分の立場は、そこで衝撃を受けることを、許されるようなものではなかった。葬儀の段取りと、父亡き後の政についてのあれやこれやは、当然のように降りかかってきて、個人的な感傷に浸る暇も、回りを気に掛ける暇も、残念ながら存在しなかった。
そうして負われて過ごしている最中に――母が倒れたと、報が入った。
驚き駆けつけた先で、母は驚くほどに細く、小さくなっていた。
「……連れて行かれてしまう、と、思った。あのとき」
ぽつり、と呟くと、弟と妹が、あわせてこちらを見た。
「母上が倒れたと聞いて、駆けつけたときに。ああ、父上は連れて行かれてしまうおつもりなのだ、と、……わかった」
母は父よりも随分と若く、父の葬儀のときも普段と変わらぬ凛とした顔をしていたけれど、自分はそれ以来、母の顔を見ていなかった。
母はこの庭で、この館で、父と過ごしたこの場所で、緩やかに穏やかに、生気を失っていっていたのだとその時気付いた。
眩暈がしたのだ。父の執着を思い知るようで。後年は随分と穏やかな夫婦だった二人の、歩んできた道を思い知るようで。
父は確かに、母を何処までも連れて行ってしまっても、可笑しくなかった。そして自分にはそれを止める手立てが、一つとして存在しなかったのだ。
「大兄様はほんとに、母様がお好きなんだから」
妹がどこか、呆れたように言った。僅かに眉を上げて妹を見やると、母によく似た顔に苦笑を浮かべて、妹は言った。
「私は、母様が着いて行ってしまわれるのだと、思ったけれど」
連れて行かれてしまう。
着いて行ってしまう。
その二つは、余りにも違う響きを持っていた。
「私ね、……嫁ぐ時に、母様に聞いたの。どうして父様と結婚したのですか、って」
そうして妹が語り始めたのは、自分が今まで聞けずにいた話だった。父と母の馴れ初め、という、聞くに聞けずにいた話。生家を持たぬ母が異国の出だということしか、知らなかった。
妹はゆっくりと語った。その全てが、母の話だと聞かされていなければ、笑ってしまうように常軌を逸していた。
母は異国から来てはじめ、劉玄徳のもとに居たというのだ。諸葛孔明の弟子として。
諸葛孔明、今は益州の地で劉玄徳の遺児を擁して孤軍奮闘している男は、確か母より幾つか上という程度だった筈だ。異国のものである母と伏龍と呼ばれた男がどう出会ったのか、そこまでは妹も聞いていないと言う。
そんな母が父と出会ったのは、戦場においてだった。母は玄徳軍を逃がす手筈の最中に川に落ちて、そこを父に助けられたのだという。覇者が少女を自ずから助ける。父であれば、やりかねないような気もした。
母は囚われの身となって、父の傍で日々を過ごした。
「父様はあの性格でしょう。異国の出で、こちらの常識も何も持たない母様が物珍しかったのだろう、って、笑っていたわ」
確かにそれは、あるかもしれない。父はとかく、人の才を愛し、自らの知らないものを好む傾向があった。
しかしそれは、母と父が結婚した理由にはならない。父は一国の丞相であり、正式な儀など結ばずとも、母を囲うことは容易かったはずだ。
「哀しい人だった、と、言ったの」
妹は何か懐かしむような顔で、小さく言った。
「父様は、哀しい人だった、って。それで母様は、放っておけないと、思ったんですって」
その頃、母は恐らく今の妹と同じくらいで――父はもう、三十も近かったはずだ。
一回りも年下の娘に、放っておけないと思われていたという父が、自分の中の父の姿と重ならない。
父は圧倒的で偉大な覇者だった。いつも堂々として、何事にも動じないように見えた。悲しいなどという形容詞が、何処につくかわからない。
思いが顔に表れていたのだろう。妹は笑った。
「大兄様は、父様のことも、お好きすぎます。……荀叔父様に聞いてみるとよろしいのに。若い頃の父上のお話を。父様はただの、寂しがりの子供が、そのまま大きくなったようなお人なんですって」
「……それはすこし、わかる気がする」
弟が傍らで、小さく頷く。
「でもだからこそ、私も兄上と同じ思いだ。寂しいから、連れて行かれてしまったんだろう」
「寂しい人だから、放っておけなかったのよ」
弟と妹が、不毛な言い争いをする。恐らくはどちらも正しく、どちらも誤っているのだろう。
「……確かに俺は、父上と母上を、偶像視しすぎていたかもしれんな」
小さく笑う。
偉大な覇者である父と。
優しく美しい母。
「単純な話だったのだろう。……父と母は、ただもうどうしようもなく別れがたかったのだ、という、それだけの」
自分にとっての父は、哀しい人ではなかった。ただ圧倒的な強者だった。
しかし今の話を聞いて、父をそうたらしめていたのは母だったのだ、と、目覚めるように、気がついた。
そしてまた、母を美しくしめていたのもまた、父だったのだろう。
そういう二人だった。
別れがたく結びついて、もう、一人で居ることが出来ないほどに癒着した、二人だったのだ。
「俺たちが、置いていかれたわけではない」
「……大兄様、そんなこと思ってたの? ほんとに母様大好きなんだから」
「煩い」
庭に、柔らかな風が吹いた。
すこし、恨むような気持ちもあった。けれど全てがもう、終わってしまったことだったし、どうにもならないことだった。そしてその全てを今はゆっくり、噛み締めるように、納得することが出来た。
「きっと、笑っていますよ。……『連れてきてしまった』『着いて来てしまった』と、二人で言い合って、笑っているのだと思います」
弟が笑った。その風景を想像することは容易く、そうして二人が変わらず幸せなのだろうと思うと、こうして悲しんでいる自分たちの方が奇妙であるようにも思えた。
庭にまた、静寂が落ちる。静かな庭は今はもう、悲しみに沈んでいるようには見えなかった。結局は観測者の見方一つか、と笑い、それから、考えていたことを口にする。
「節。……この庭は、お前が継ぐといい」
「……え?」
「帝も、この庭が好きだった」
妹は目を瞬いて、それから、花が綻ぶように自然に、笑った。
「ええ。……あの人と二人で、ここを守るわ」
「……いや、帝には程々にするように言ってくれ」
「わかっていますとも」
新たな庭の主が、此処に残る思いを慈しみ、新しい庭を作っていく。思いとは、命とは、そうして受け継がれていくものなのだろう。
悲しむべき理由がもう、何処にも無かった。ゆっくりと目を閉じる。父と母が微笑んで自分を見ている。そんな夢想も、今であれば現実として、信じられるような気がした。
(長男曹丕、次男曹植、長女曹節な誰得話。曹昂とか黄髭とかその他諸々何処行った?とかは聞いては駄目です。ダメダメ。孟徳の息子娘は多すぎるんだよ。)
(節ちゃんは献帝に嫁いでいます。年齢差は気にしたらだめ。ダメダメ。)
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