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姫金魚草

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1.待って

( だめだだめだだめだ。その先にあるのは絶望だけだから )

「曹孟徳に近づいてはいけないよ」
 孔明は言った。
「話をするのはいい。もちろん彼は魏の要人だから、警戒をあらわにしてはいけない」
 丞相と言う立場を取り上げられても、彼が魏一帯を治める立場であることに変わりはない。だから、建前上、平和的な関係でいることは重要だった。そう言いながらも、けれど、孔明は繰り返した。
「だけど、決して、距離を狭めてはいけないよ」
 花にはその意味が、よくわからなかった。首をかしげる。
「距離、ですか」
「そう。――場所的な意味じゃないよ。ああ、もちろん、君は女の子だから。立場に相応しいだけの実際の距離を取ってもらうのは当たり前だけど、そうじゃない。なんて言ったらいいのかな」
 孔明はわずかに、考え込んだ。そうしてから、何とも言い難そうな顔で言う。
「変な言葉だけど、心の距離とでも言ったらいいのかな」
「心の、距離」
「そう。気を許すな、って言い換えてもいいのかもしれないけど、警戒しろ、って言いたいわけじゃないんだ」
 孔明の物言いは、彼には珍しく、ひどく曖昧なものだった。だから花にはよくわからない。
 心の距離。
「よく、わかりませんけど。でも、――孟徳さんと近づくことなんて、ないんじゃないでしょうか」
 少し考えて、花は言った。
 だって孟徳は、花のことを嫌っている。厭っているとも、憎んでいるとも言えるだろう。
 そうでないはずがない。
「どうして、そう思うの」
 孔明は少し不思議そうに、首を傾けた。むしろ孔明はどうしてそう思わないのだろう、と、花は向かいで首をかしげる。
「だって私は、孟徳さんの道を、阻んだでしょう」
 もちろん、花のせいだけではないけれど、けれど確かに花は、彼の阻まれるはずのなかった覇道の障害となったのだ。花はこの時代のことに詳しくないけれど、本が最初に示していた道筋が本来のものであるならば、花は確かにそれをゆがめた。
 孟徳による涼州侵攻を阻み、献帝を救いだし、青洲兵を裏切らせて、三国の鼎立を成し遂げた。
 そんな花を――孟徳が、恨みに思わないはずがないのだ。花独りで成し遂げたことではないけれど、孟徳のほうは花のことをおまけの小娘のように思っているかもしれないけれど。
 けれどそれでも、もし孟徳が花の存在など気にかけていないとしても、花の中には確かにひとつの、罪悪感とでもいうべきものがあった。
「孟徳さんは私をきっと、許さないと、思います」
 花は、孟徳のことをよく知るわけではない。すれ違う程度の邂逅で知ることができるほどに、浅い人物でないということがわかるだけ。そしてその短い間でわかるほどに苛烈な彼は、彼に背いた花を許しはしないだろう。
「そうして君は、それを――悔いているわけか」
「! 後悔してるわけじゃ、」
「いいんだよ。すべてを選ぶことは出来ないんだから――君の罪悪感は、甘さとも言えるし、仕方がないとも言える」
 孔明はすべてをわかっているとでも言いたげに言って、花は困ってうつむいた。罪悪感。的確に花の感情を言い表したその言葉は、けれどだからこそ、どうあっても花と孟徳とを近づけることなどないように思えた。
「憎悪と罪の意識。――なるほど、それが本当であれば、近づくはずはないかもしれない」
 孔明はため息交じりに、何処か諦めたような風情で言った。花はそんな孔明を不思議な思いで見る。
 それが本当であれば?
 それ以外の。
 それ以外の何が、本当であるというのだろう。

 * * *

「丞しょ、……いや。どうか、曹孟徳に近づかぬように」
 文若は言った。
「孟徳様は、決して、お前を許しはしない」
 低く沈んだ、重く疲れた声。文若は彼には珍しいだらしなさで椅子の肘掛けに肘をついていた。
 彼は功労者だ。文若があの時花達を見逃さなければ、献帝の救出は不可能だった。そして献帝を救い出すことが出来なければ、花達はただの反逆者だった。
 文若は誰よりも称えられるべき勤皇の徒で、辛くも孟徳が彼を処刑する前に間に合った花達の行動によって生き延びた。そして新たな、孟徳の手を離れた漢朝廷においても、重要な役職を担っている。
 それでも、彼の顔色が晴れることはない。孟徳の元を離れて長安の宮廷に仕える男は、孟徳が宮廷に拝するときは常にその姿を隠し、決して顔を合わせようとはしない。それはあの覇王・曹操を裏切った男としては当然の行動かもしれなかったが、文若は、それでいて恐れているようには見えなかった。
 ただ。
 ただ、彼は、苦しんでいた。
 今日もまた、孟徳の訪れを朝廷の奥深く執務室に篭って聞いて、引き籠りの気を深めることを決めた風情だ。献帝からの使いで文若の元を訪れた花に、文若はぐたりとした姿勢で言ったのだ。
 滲むのは、慙愧か。花はすぐに、文若の言葉の真意に気付いた。
「私を、」
「ああ」
「――そして、貴方を、ですか」
 文若の伏せられていた目が、一時だけ、花の顔に向けられた。目があってなお感情の見えないくらい眼差しはすぐに元通り伏せられて、文若はひどく大儀そうに一つ、頷いた。
「そうだ。……察しがよくなったな」
 口元だけで、低く笑う。
 花の知る男は、こんな風に笑いはしなかった。もちろん花の前でこんな姿勢でいたこともないし、その鋭い眼差しを伏せていたこともない。寄せられた眉間の皺がとれたこともなかった。口元が緩むところすら見たこともなく、いつもこちらが緊張してしまうくらいに厳しい顔を、真っ直ぐに、花を見透かしたがるように向けていた。
 花は思わず、口を開いた。
 決して、言ってはいけないと思っていたのに。
「ごめんなさい」
 これを言ったら、文若は、自分の行いが、悪いことであったと――謝られるようなことをさせられたのだと、嫌でも意識してしまう。楽になるのは、花だけだ。けれど花は、言わずにはいられなかった。
「ごめんなさい、私が――」
「いいんだ」
 文若は、花の言葉を厭うように、眉を寄せて首を振った。
「いいんだ。ただ、私が」
 口元が歪んでいる。嘲るような笑みを向ける先は、たがえようもなく、彼自身であるのだろう。

「ただ、私が――誰よりも孟徳様を傷つけた私が、こうして永らえているのが、いけないのだ」

 傷つけた。
 それは、余りに感傷的な言葉だった。まるで王佐に相応しくない、感情的な表現だった。
 花は少しばかり驚いて、文若を見た。
「きずつけ、た?」
「ああ。――詮のない話をしたな」
 文若は喋りすぎたことを悔いるように目を閉じて、文若は献帝からの書簡をまるで手慰みのように開いた。
 傷つけた。
 そんな文若の前で、花の脳裏には、そのことばだけがぐるぐるとまわっていた。
 傷つけた。

(わたしは、――そんな、わたしは)
 驚いていた。愕然としていた。
(私は、孟徳さんが傷つくということを、まるで、考えもしていなかった)

 許されないと思っていた。憎まれているだろうと覚悟していた。
 けれど。
 彼が傷ついただろうとは、かけらも想像しなかった。
 それはとても、残酷なことのように、思えた。

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