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姫金魚草

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悠久の孤独 (早安)

「花、」
「――? おかえりなさい」
隣家へ薬を届けてきた早安の帰りを迎える――花は僅かに首を傾けた。
一間に、炊事用の土間があるだけの、ささやかな我が家。繕い物をしていた手を止めて顔を上げれば、直ぐに扉が見える程度の家だ。
早安は何処か途方にくれたような顔で、立ち尽くしていた。
「どうしたの? 何か、」
「公瑾が」
「――、」

「公瑾が、死んだ」


 * * *


都督が、と聞いたときに、驚いたのは――こんな田舎町にも、その声名は知れているのだ、ということだった。
そのせいで、少し、理解が遅れた。
周都督が、お亡くなりになったそうだよ。
それは――安堵すべき報の筈だった。人の凶報に安堵など、してはならないことではあるが――早安は追われる身であり、その命運は、彼を直接扱っていた人物、周公瑾に握られているといっても、過言ではなかった。
「……ん? どうかしたかね、先生」
「っ、」
噂好きの老人達は、新参者の早安と花と、一番はやく打ち解けてくれた人々でもある。親しみを込めて呼ばれる「先生」という呼称は、恥ずかしくも嬉しくもある。しかし今は――まるでそれが自分の呼び名ではないような気がして、少し、戸惑った。
「いや。……花が待ってるから」
「ああ、また家から煙吐かれたらかなわんからのう。はやく帰っておやり」
「……一応、上達してんだけど」
苦笑と共に言って、何事も無かったかのように身を翻す。
(公瑾が、)
(公瑾が、死んだ)
何故だかわからなかった。
何故、こんな気持ちになるのか、わからなかった。
ぽっかりと、胸に穴が空いたような。
なにか、どうしようもないものを、失ったような。
(こうなることは、)
(あのとき――こうやって逃げてきたときに、覚悟しておかなければならなかった)
(覚悟していた――つもりだったのに)
(ああ、)
(花に、)
(あいつに会いたい)


 * * *


花はしばし、言葉を失ったように呆然として――それから、くしゃりと顔を歪めた。
「……」
彼女は聡明だ。直ぐに、わかったのだろう。嘆く資格も、悼む資格も無いことを。二人で生きるために――彼と、国を捨てた二人には、彼に対して、あの国に対して、なんの資格も無い。
花はゆっくりと立ち上がり、立ち尽くしたままで居る早安に近寄った。どこかぼんやりとしたままの視線が、花に下ろされる。
花はそっと、早安の腕に触れた。僅かに目を瞬くと、困ったような顔で、手を上に辿らせる。

頭を、抱えるようにそっと、抱きしめられた。

「……、」

彼女が僅かに背伸びをすると、丁度首筋に顔を埋めるような形になる。ふわりと彼女から香るのは、彼女の名をあらわしたような柔らかな香りだ。
耳元に、囁かれる。泣いてもいい、悲しんでもいい――言われる前に、花の肩は濡れていただろう。自分でも気付かぬ間に、花の細い身体に、すがり付いていた。

(使われることを恨んだことも)
(この暮らしのために――彼女を守るために、殺してでも、決別しようと思ったこともあった)
(けど、確かに)
(俺の人生の殆どは――公瑾とともに、あったのだ)

それは、彼しかいなかった、という、消去法であっても。
彼にとって、都合のいいだけの何かだったとしても。

「……早、安」
「俺は、……一人だった」
「……」
「アイツも……一人だったんだ」

彼女にわかるだろうか、暖かい場所で愛されて育ってきた彼女に。
誰からも顧みられない生と、……誰をも顧みない生の、在り方が。
わからないでいればいいと思う、わかってほしいと思う。花の腕に力が篭る。細い腕。苦労を知らない腕。柔らかくやさしく、守られてきた腕。
今はその腕に、囲うように守られている。
温かく優しい彼女の世界に触れているような――彼女の腕の中には、そんな、ゆりかごのような安心感がある。
「そしてアイツは――一人で、死んだ」
誰をも顧みない生の中で、彼は恐らく、ひっそりと、猫のように死んだのだろう。深い後悔と懺悔と未練と、そんなものが交じり合った黒い闇の中で――
――恐らく、花に出会わなければ早安もまたそうして死んでいたように、――ただ一人で。
公瑾は、冷たい男だった。
人らしい交わりをしたこともなかった。指令以外の会話の記憶も、ないに等しい。
それでも二人は――たった一人。ひとりぼっちの、二人だった。
想うことなど許されていなかった。もうこの嘆きも、ただの同情になってしまう気がした。こうして縋る相手を見つけて、二人で生きていくことを誓って、安らかな――もう一人ではない生を手に入れてしまった自分では。

「公瑾さんは、……気付かなかったのかな、最期まで」
「……」
「小喬ちゃん、大喬ちゃん。仲謀さん。尚香さん。子敬さん――それに、早安」
「……」
「ほかにも、きっとたくさん。……誰も、彼を一人になんて、したくないと思っていたはずなのに」

それはとても、かなしいね。

花は、泣いていなかった。
早安はそっと身体を起こして、花の顔を見た。泣きそうに歪んでいて、けれど花は泣かなかった。ただ早安の顔を見上げて、何か確かめるように、早安の目を見た。

この思いは、罪だ。

早安は改めて、そう感じて、目を閉じた。
彼女が、自分を一人にしたくないと想ってくれることに、――自分が一人ではないことに、こんな風に安堵するのは。
この温かい腕の中で、早安は、悠久の孤独から掬い上げられた。
そのどうしようもない幸福は、それだけで、どうしようもなく罪だった。彼女と共に生きよう、と。ただ彼女と共にあろうと。遠い日の男の幻影に、どうか許されるようにと希った。











(だれも一人でなんて、生きられはしないはずなのに)
(どうして、一人で死ぬことだけは、できるのだろう)

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