姫金魚草
三国恋戦記中心、三国志関連二次創作サイト
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07 白なのか紅なのか
来客に供えて、見張りの兵士に茶のための湯を言付ける。
そのときに、数日前に侵入者騒ぎがあったと聞いた。護衛がつくようになってから、花の元に届く近況はすべて数日遅れだ。時期的に子龍だろうと見当をつけ、もう戻れないのだとすこし思った。なんの感慨も、抱かずに。
湯を持ってきた護衛が丁度よく訪れた客人を部屋に通す。孟徳からも言付かっているのだろう。黒い洋装の男は警戒するような眼差しと共に、軽く頭を下げた。
「丞相に言い付かりまして。お話があるとか」
立ったままに礼をとる男に、花は柔らかい笑みを向け、椅子を勧めた。
「どうぞ。……私は捕虜の身です、礼など必要ありませんから」
男が座るのを確かめて、茶器をそろえて茶を淹れた。男は僅かに眉を顰めた。捕虜の身と言いながら、この時代には高級品である茶を淹れる矛盾を思っているのだろう。男の前と、自分の前と。茶を揃えた所で、男の向かいに腰掛ける。
「異国の方と伺って。……それと、面白い書を、お持ちと聞いて」
無論、そんなことは聞いていない。男の目が見開かれるのを見ながら、畳み掛ける。
「九天九地、でしたか? 九は限りのないことを現す数字。どのようなことが書かれているのか、興味を持ちましてね」
丞相に無理をお願いしてしまいました、と。小首を傾げて笑う。男は呆然とこちらを見た後――二度の瞬きで表情を隠し、一口茶を口に含んだ。次にこちらを向いたときには、すっかり気を落ち着けたように見えた。
「私の国の書ですよ。軍略の書ではありますが、かの伏龍が気になさるようなものではありません」
「軍略の。そんな風に言われてしまったら、一層気になってしまいます。……九天九地。広がるこの世界の全て。――そんな題を冠した軍略の書とは……まるで、まるで、すべての答えを教えてくれる、予言の書のようですね?」
孔明の知と感嘆するか、それとも――なにか、知っていると見るか。
あの頃、花が同じ書によってこの世界に連れてこられ、何もわからないままにあの書に願っていた頃――心には消えない不安があった。この書は一体何なのか。どうすれば、元の世界に帰る事が出来るのか。
花は今、答えを持っている。簡単に、彼に渡してやる気はないけれど。
「……、……たしかに、あの書は、私に軍略を授けてくれる書です」
男の声が、惑うように揺れた。
「けれど、なにも。……私は何も知らないのです。あの書について。ですから、何も、語ることは出来ません。そしてあれは、私にとって、唯一、国から持ってきたものなのです」
(あ、しまった。牽制された)
話の主導権を握って、驚かせ怯えさせて、一気に聞き出してしまおうと思ったのだけれど、どうやら、急ぎすぎたらしい。
(取り上げたり、しないのに)
もう、あの本を手にしても、何の意味もない。しかし今の言いぶりでは、こちらがその書を欲しがっていると思われても、不思議ではないだろう。慌てて手を振った。
「ええ、ええ。大切なものだとは、存じています。ほんの少し、見せていただこうと思っただけなんです」
見て、表紙の色を確認することが出来れば、充分だった。彼がもう果たしたのか、それともまだこれからなのか。それさえわかれば、中を見る必要すらなかったのだが。
「私の国の言葉で書かれた書です。畏れながら、貴方といえども読むことは叶わないかと」
「そうですか、……残念です」
失敗した。最初からうまく孟徳から書のことを聞き出し、持ってきてもらうように話を持っていくべきだった。花は心底の落胆と共に溜息をついた。さて、それならば。
「でも、ということは、言葉も違うところから来られたのですね」
「はい。この辺りではあまり知られていない地ゆえ、どちらからということも難しいのですが。東のほう、というくらいしか」
「私も旅は長いつもりですが、貴方の着ているようなものは見たことがありませんね。私の知らない世界がまだあるというのは、不思議な気分です。いつかは訪れてみたいものですが。東ということは、楽浪郡の先か、はたまた海の向こうでしょうか」
問うと、男は困ったような顔で黙った。海の向こうであることは確かだが、訪れることの決して出来ぬ地だという思いと、その地に帰れるのかという思いが交差したのだろう。気付かぬ振りで、首を傾ける。
「とかくそのような遠くから――何故この地へ? いえ、私も旅は長いですから、目的など確たるものでないと知っています。けれど、だからこそ」
主を決めるには、確たる何かが要ることも、知っているのです。
彼の願いを、なによりもまず、知らねばならなかった。期限を知り、触れられる範囲を知る、そのために。
こちらには沈黙を通すことを許さずに静かに男を見つめると、男はゆっくりと、口を開いた。
「……曹孟徳を、英雄と見たからです」
それは、本当であれば、こんな口調で言われていい言葉ではなかった。
本に願った男が、自らの希の主を口にするのに――なぜこのような口調になるのか、花には、わからなかった。
(予測していた、……曹孟徳に覇者たれと願うのだろうと、その程度は)
赤壁の大敗さえなければ、曹孟徳は中華を統一する王となっていただろう。
赤壁を為したのは呉蜀の同盟が為ったからであり、孔明が子瑜を頼って呉に働きかけなければ、赤壁の戦自体が存在しなかった可能性は高い。そうすれば曹孟徳の天下など、容易く望むことが出来る。
だからこそ花を――孔明を捕らえ、逃がさぬように言い募ったのだろうと、その程度は。
(けれど、)
花は目の前の、どこか苦悩するような顔の男を仔細に眺めた。その全てを計って、元となる思いを掬い取らなければ為らなかった。
(どうして、――すべてはもう直ぐ叶うのに。彼の願いが「そう」であるのならば、もう、成ったも同然だというのに)
何を惑う。何に惑う。
「英雄、ですか。……乱世の奸雄。彼こそが、天下の覇者だと、……貴方は、そう見たということですか」
見えない。探るために言葉を紡いだ。孟徳麾下のものであれば、頷くしかない、愚かな問いだ。
けれど彼は瞬くだけの時間を置いたうえで、ほんの僅かに、頷いただけだった。
(ああ、そうか)
(そういう、ことか――)
曹孟徳。この世界の曹孟徳は、確かに曹孟徳であるけれど。
それが、彼の「曹孟徳」足りえるのかは――わからない。
(それでも、貴方には、目的を、果たしてもらう。……彼の天下を、築いてもらう)
(そうして、私が、彼の傍に居られる世界を、作ってもらう)
彼は惑う。惑ううちは、彼は戻ることが出来ないだろう。彼が望みを確かに持てぬうちは。
曹孟徳の天下に、諸葛孔明の居場所を作る。花のその目的のために――彼をうまく、使わねばならない。
(惑えばいい。惑ううちは、逃げられない)
そうして彼が取り込まれても、花の知る由のないことだ。
ただひととき。曹孟徳のために、この一生を足掻くと決めてしまった。
そのお膳立てをしてしまった彼が、花のせいでどうなったとしても、結局のところ因果だろう。
(貴方が要らないのなら、この英雄は、私が貰う)
(貴方のかわりに。貴方となって。私が、彼を、覇者にしよう)
ゆっくりと、笑った。目の奥に、紅の衣が翻る。
この世界に来たときの、白い光の向こうに見たものが、なんだったのかなどもうわからないけれど、何を願ったのかなど忘れたけれど、忘れたからこそ今、こうして願えるのだと思えば――目の前の男が哀れで、自らの非道さに、ただ、笑うことしか出来なかった。
(実際、憧れた曹孟徳があれだったらちょっと嫌だ。/ぇ)
(本は望む世界になるかなーと思うんですが、その辺りは物語の都合上、都合よく。)
そのときに、数日前に侵入者騒ぎがあったと聞いた。護衛がつくようになってから、花の元に届く近況はすべて数日遅れだ。時期的に子龍だろうと見当をつけ、もう戻れないのだとすこし思った。なんの感慨も、抱かずに。
湯を持ってきた護衛が丁度よく訪れた客人を部屋に通す。孟徳からも言付かっているのだろう。黒い洋装の男は警戒するような眼差しと共に、軽く頭を下げた。
「丞相に言い付かりまして。お話があるとか」
立ったままに礼をとる男に、花は柔らかい笑みを向け、椅子を勧めた。
「どうぞ。……私は捕虜の身です、礼など必要ありませんから」
男が座るのを確かめて、茶器をそろえて茶を淹れた。男は僅かに眉を顰めた。捕虜の身と言いながら、この時代には高級品である茶を淹れる矛盾を思っているのだろう。男の前と、自分の前と。茶を揃えた所で、男の向かいに腰掛ける。
「異国の方と伺って。……それと、面白い書を、お持ちと聞いて」
無論、そんなことは聞いていない。男の目が見開かれるのを見ながら、畳み掛ける。
「九天九地、でしたか? 九は限りのないことを現す数字。どのようなことが書かれているのか、興味を持ちましてね」
丞相に無理をお願いしてしまいました、と。小首を傾げて笑う。男は呆然とこちらを見た後――二度の瞬きで表情を隠し、一口茶を口に含んだ。次にこちらを向いたときには、すっかり気を落ち着けたように見えた。
「私の国の書ですよ。軍略の書ではありますが、かの伏龍が気になさるようなものではありません」
「軍略の。そんな風に言われてしまったら、一層気になってしまいます。……九天九地。広がるこの世界の全て。――そんな題を冠した軍略の書とは……まるで、まるで、すべての答えを教えてくれる、予言の書のようですね?」
孔明の知と感嘆するか、それとも――なにか、知っていると見るか。
あの頃、花が同じ書によってこの世界に連れてこられ、何もわからないままにあの書に願っていた頃――心には消えない不安があった。この書は一体何なのか。どうすれば、元の世界に帰る事が出来るのか。
花は今、答えを持っている。簡単に、彼に渡してやる気はないけれど。
「……、……たしかに、あの書は、私に軍略を授けてくれる書です」
男の声が、惑うように揺れた。
「けれど、なにも。……私は何も知らないのです。あの書について。ですから、何も、語ることは出来ません。そしてあれは、私にとって、唯一、国から持ってきたものなのです」
(あ、しまった。牽制された)
話の主導権を握って、驚かせ怯えさせて、一気に聞き出してしまおうと思ったのだけれど、どうやら、急ぎすぎたらしい。
(取り上げたり、しないのに)
もう、あの本を手にしても、何の意味もない。しかし今の言いぶりでは、こちらがその書を欲しがっていると思われても、不思議ではないだろう。慌てて手を振った。
「ええ、ええ。大切なものだとは、存じています。ほんの少し、見せていただこうと思っただけなんです」
見て、表紙の色を確認することが出来れば、充分だった。彼がもう果たしたのか、それともまだこれからなのか。それさえわかれば、中を見る必要すらなかったのだが。
「私の国の言葉で書かれた書です。畏れながら、貴方といえども読むことは叶わないかと」
「そうですか、……残念です」
失敗した。最初からうまく孟徳から書のことを聞き出し、持ってきてもらうように話を持っていくべきだった。花は心底の落胆と共に溜息をついた。さて、それならば。
「でも、ということは、言葉も違うところから来られたのですね」
「はい。この辺りではあまり知られていない地ゆえ、どちらからということも難しいのですが。東のほう、というくらいしか」
「私も旅は長いつもりですが、貴方の着ているようなものは見たことがありませんね。私の知らない世界がまだあるというのは、不思議な気分です。いつかは訪れてみたいものですが。東ということは、楽浪郡の先か、はたまた海の向こうでしょうか」
問うと、男は困ったような顔で黙った。海の向こうであることは確かだが、訪れることの決して出来ぬ地だという思いと、その地に帰れるのかという思いが交差したのだろう。気付かぬ振りで、首を傾ける。
「とかくそのような遠くから――何故この地へ? いえ、私も旅は長いですから、目的など確たるものでないと知っています。けれど、だからこそ」
主を決めるには、確たる何かが要ることも、知っているのです。
彼の願いを、なによりもまず、知らねばならなかった。期限を知り、触れられる範囲を知る、そのために。
こちらには沈黙を通すことを許さずに静かに男を見つめると、男はゆっくりと、口を開いた。
「……曹孟徳を、英雄と見たからです」
それは、本当であれば、こんな口調で言われていい言葉ではなかった。
本に願った男が、自らの希の主を口にするのに――なぜこのような口調になるのか、花には、わからなかった。
(予測していた、……曹孟徳に覇者たれと願うのだろうと、その程度は)
赤壁の大敗さえなければ、曹孟徳は中華を統一する王となっていただろう。
赤壁を為したのは呉蜀の同盟が為ったからであり、孔明が子瑜を頼って呉に働きかけなければ、赤壁の戦自体が存在しなかった可能性は高い。そうすれば曹孟徳の天下など、容易く望むことが出来る。
だからこそ花を――孔明を捕らえ、逃がさぬように言い募ったのだろうと、その程度は。
(けれど、)
花は目の前の、どこか苦悩するような顔の男を仔細に眺めた。その全てを計って、元となる思いを掬い取らなければ為らなかった。
(どうして、――すべてはもう直ぐ叶うのに。彼の願いが「そう」であるのならば、もう、成ったも同然だというのに)
何を惑う。何に惑う。
「英雄、ですか。……乱世の奸雄。彼こそが、天下の覇者だと、……貴方は、そう見たということですか」
見えない。探るために言葉を紡いだ。孟徳麾下のものであれば、頷くしかない、愚かな問いだ。
けれど彼は瞬くだけの時間を置いたうえで、ほんの僅かに、頷いただけだった。
(ああ、そうか)
(そういう、ことか――)
曹孟徳。この世界の曹孟徳は、確かに曹孟徳であるけれど。
それが、彼の「曹孟徳」足りえるのかは――わからない。
(それでも、貴方には、目的を、果たしてもらう。……彼の天下を、築いてもらう)
(そうして、私が、彼の傍に居られる世界を、作ってもらう)
彼は惑う。惑ううちは、彼は戻ることが出来ないだろう。彼が望みを確かに持てぬうちは。
曹孟徳の天下に、諸葛孔明の居場所を作る。花のその目的のために――彼をうまく、使わねばならない。
(惑えばいい。惑ううちは、逃げられない)
そうして彼が取り込まれても、花の知る由のないことだ。
ただひととき。曹孟徳のために、この一生を足掻くと決めてしまった。
そのお膳立てをしてしまった彼が、花のせいでどうなったとしても、結局のところ因果だろう。
(貴方が要らないのなら、この英雄は、私が貰う)
(貴方のかわりに。貴方となって。私が、彼を、覇者にしよう)
ゆっくりと、笑った。目の奥に、紅の衣が翻る。
この世界に来たときの、白い光の向こうに見たものが、なんだったのかなどもうわからないけれど、何を願ったのかなど忘れたけれど、忘れたからこそ今、こうして願えるのだと思えば――目の前の男が哀れで、自らの非道さに、ただ、笑うことしか出来なかった。
(実際、憧れた曹孟徳があれだったらちょっと嫌だ。/ぇ)
(本は望む世界になるかなーと思うんですが、その辺りは物語の都合上、都合よく。)
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