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姫金魚草

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04 空白を想う

(あどけなさを見る)

 孔明の暮らしは、静かだった。
 孔明は何も知らない亮に、火の起こしかたからはじまり、畑の世話の仕方、そして簡単な書の手習いと、生きていく術を淡々と授けた。
 孔明の庵には、多くは無いがその知を頼る客人が来る。体外的な名目として、孔明は亮を「弟子」と称した。
 じわりと、滲む何かがあった。「孔明の弟子」。違和感に近い。確かに色々と教えられているし、亮が一通り飲み込んでからは、生活の世話も任されている。弟子というに相応しいことをしていて、なのに拭えない何かがあった。
 その違和感を消すために、亮は孔明を「師匠」と呼んだ。女である孔明を「孔明」と呼ぶこともまた、躊躇われたからかもしれない。呼んでいるうちに、弟子らしくなるといい、そんな想いもあった。孔明の弟子、は、どんなに違和感があっても、この世界で宛てのない亮を助けてくれる称であるはずだった。
 しかし今度は、孔明のほうに違和感があるようだった。孔明はいつまで経っても師匠呼びに慣れず、嫌な顔をし続けた。顰めた顔が彼女の童顔を引き立たせて、なんだかとても可愛らしい気がして、当初の目的を忘れて呼び続けた。
 師匠と弟子。
 静けさの中で、庵での暮らしはなぜか、とても亮の身に馴染んだ。晴耕雨読、という言葉をそのまま体現したような暮らしは、学者である亮にとって、憧れだったのだろうか、と少し思う。
 亮が身を置いていた世界は、静けさとは程遠かった。人と情報が溢れ、時間はとにかく忙しなかった。
 気になることは、沢山あった。やりかけの研究と、置いてきている研究生と。次の学会の段取りと、講義の組み立てと。時間に追われるように、やるべきことが沢山あった。
 そうして思い起こす中で、心残りに、人が含まれていないことに気がついた。両親は既に他界し、兄弟はそれぞれの道に進んで疎遠になっている。恋人というものも、居なかった。仮初と言うような恋ばかりしてきて、深く付き合うということが無かった。なにせ女性よりも、研究の方が面白いので。
(……そんなボクが、まさか、こんなふうに人と暮らすことになるとはねぇ)
 若い男女が狭い庵で暮らす。
 異世界、可愛らしい女性、二人暮らし。まさしく安い娯楽小説だ、と思う。
「亮は覚えが早いですね」
 孔明はそう言って、子供を褒めるように亮を褒めた。よしよし、と実際に撫でられたことすらある。年の頃はそんなに変わらないはずなのに、どうして孔明は随分年上であるかのような所作をした。
 なにせかの諸葛孔明だ。その才知の前には、誰もが子供のように見えるのかもしれない。
 けれど亮には、何故か逆に、彼女の方が子供であるように見えた。華奢な体つきと、童顔のせいだろうか。それだけではない、と、思えた。
 狭い庵だ。眠るときは、孔明が質素な寝台に、亮が下に薄い敷布を敷いて寝る。
 孔明の寝顔を、見たことがあった。というか、いつも見ている、と言ってもいいかもしれない。孔明は、朝に弱い。
 童顔は、眠っていると更に幼く見えた。あどけない、と言ってもいいような顔だった。
 この顔を、知っている。
 何故そう思うのかはわからなかった。わからないことだらけだ。朝の庵で、孔明の静かな寝息を聞きながら、亮はいつもあの書を開いた。
 九天九地。
 限りなく広がる様を意味する言葉だと、孔明が言った。朝の静かな冷たさの中で、亮はいつも、最初の頁に書かれた言葉をなぞった。

 汝、繰る者であり、綴る者――

 折を見て読み進めた、それは確かに歴史書だった。この世界の歴史が書かれている書。それは亮が知る三国志のものと同じようで、少し違っているようだった。なにせ劉玄徳がまだ青年だ。本来であれば、孔明を訪ねてくる劉玄徳は、中年を過ぎた年頃であるはずだった。
 改変された歴史。
 そして書は、現在より先、この時における未来についての記述へと続いていた。亮の時代からすれば過去なのだから、可笑しなことは何もない。何もないはずなのだが。
 書には、――空白の頁があった。
 というより、主要は戦は全て、空白となっているようだった。亮はさして三国時代に詳しいわけではないが、赤壁くらいは知っている。そのあたりもまた、空白であった。
(汝、繰る者であり――綴る者)
 空想だ、と思った。
 けれど、そうでなければ説明がつかなかった。
 つまりここは――この世界は、三国志と似て非なるこの世界は、この本の世界に相違なかった。本の中、とでも言うべきなのだろうか。
 本の中――そういう空想小説はよくあるな、と思う。漫画の題材としても。だが、まさかこの身に起こりうることだとは、流石に想像もしなかった。
 本を閉じて、孔明を見る。幼い風貌は、このような暮らしをしているのに日焼けのない白い肌のせいもあってか、奇妙に人形めいて見えた。
 いたましい。
 不意に浮かんできた感情の意味が、亮にはよくわからなかった。それは、同情か――贖罪か。そんな、胸が苦しくなるような感情だった。

 * * *

「ボクが、行きます。師匠の名代として」
 それは、最初から考えていたことだった。孔明には思いも寄らぬ台詞だっただろう、目を見開いた顔が、やはり幼い少女に見えた。
 本を読み解けば、道は一つしかなかった。空白の頁を、埋めるのだ。どうなれば埋まるのかは、わからない。ただ漫然と時の流れるままに任せて、その戦が過ぎれば勝手に埋まるのかもしれない。けれど、最初の一文を見れば、その可能性は低そうだった。
 汝、繰る者であり、綴る者。
 つまり、本の読者が――亮自身が、見届けなければいけないのだろう。空白を埋めるのは、亮でなければならないのだろう。
「ついてくる、ならわかるけど。私が行かなければ駄目でしょう」
 孔明が苦笑しながら言う。それでも、ただ弟子としてついていくだけでも、問題はないのかもしれない。
 けれど。
(だって、彼女は)
 彼女が諸葛孔明だということを、認めていないわけではない。深い知識と明晰な頭脳は、日々を過ごすうちに自然と知れた。諸葛孔明の知、と納得するだけのもの。
(彼女は、……戦場に出るような者ではない)
 何を納得しても、突き上げるようにそう思った。静かな庵で、朝のまどろみに揺られて、穏やかに微笑んでいる。そんな姿を、見続けた所為かも知れない。
 智謀の軍師に思うに相応しい感傷ではないということは、わかっていた。諸葛孔明の知を、確かに歴史は欲している。こんな庵で埋もれていてはいけない、ということもまた、わかっている。
(けれど、ボクは、……彼女の代わりを、果たせるのだ)
 そうししなければいけないような気がした。本の空白を埋める、という意味だけでなくて。それが自分の役割のような気が、したのだ。
 幸い自分には未来の知識と、この書がある。諸葛孔明の役割を果たすことは、難しくとも不可能ではない。
 孔明が、痛みを堪えるような顔をする。何を思うのか、わからない。ただ、孔明は一つの溜息とともに、亮が『孔明の弟子』として発つことを了承したのだった。














(亮くんは現代でも天才というか、そんなかんじ。)

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