姫金魚草
三国恋戦記中心、三国志関連二次創作サイト
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幸いを乞う (文若)
「この堅さはそのうちまちがいなく石になるぞ!」
(……、……煩い声だ)
「ほら、やっぱり。すっかり固まってしまっているじゃないか」
(何がだ、私の何が)
「そうしてすっかりお前は笑わなくなってしまって」
(……何を、言っているのだ)
「ほら、すっかり、石になって――」
「……さん、……文若さん?」
「……!」
揺り起こされて、一瞬、夢と現が交差した。
片手に濡らした布巾を、机の上に水の椀を置いて、不安げな顔で花がこちらを見ていた。
(……そうか、また)
宴会の帰り――館に帰りついたはいいが、酔いを醒まそうと座っているうちに眠ってしまったのか。
「……すまない」
「いえ。お水、飲みますか」
「ああ、頂こう」
すっかり手馴れた様子で杯を差し出すのを受け取り、ゆっくり口に含む。口内に残った酒精のべたつきが洗い流されていくようで、やっと人心地ついた気がした。
「何か、夢でも見てらしたんですか?」
柑橘を剥いて皿に並べながら、花が首を傾げる。夢。覚めた瞬間に拡散して、もう朧にも捕まえられないが、確かに何か、夢を見ていた気がする。
「どうしてそう思う、……まさか」
何か、口走っていたか。文若は寝言の気があり、一度うっかり孟徳に見咎められたときは、一ヶ月はその話でからかわれたものだった。
僅かに慌てた文若の前で、花は困ったように答えた。
「すこし、顔が険しい気がしたので……悪い夢を見ているのかと思って」
心配で、慌てて起こしてしまいました。花の言葉に、僅かに、散っていた記憶が集まってくる気配があった。
(悪い夢……、……だったのか、あれは)
「……丞相が、出てきた気がするが」
「孟徳さんですか? あ、えっと」
じゃあ、悪い夢じゃなかったのかもしれませんね。孟徳の夢を悪夢扱いしたことがバツが悪かったのだろう、花は慌てて、あまり庇い立てになっていないことを言った。文若は思わず、小さく笑う。
「いや、丞相だからこそ、悪い夢だろう。未採決の書類を山と積み上げられるような」
「確かにそれは、悪夢ですね」
花も文若の補佐として、孟徳のさぼり癖に困らせられたことを思い出したのだろう。つられたように笑う。
「よし。……剥けました、どうぞ」
「ああ、すまんな」
話しながらも止まっていなかった花の手は、こちらの小刀にもすっかりなれて、堅い皮の果実から器用に実だけを取り出している。なんでも、果物の皮を剥くのは得意なのだそうだ。酔い醒ましにいいと聞いてから、花はいつもこの酸味のある果実を剥いてくれる。
二人で、あまずっぱい実を摘む。外から、虫の鳴き声が聞こえてきた。
穏やかで、やさしい夜。
花は出仕をやめ、この館で荀文若の夫人として静かに過ごしている。こうして彼女がなにかれとなく世話を焼いてくれるのがなんだか自然になって、どれほど経つだろう。
「そろそろ、休みますか? 明日の朝議は、みなさん二日酔いかもしれませんが」
「丞相が起きてくるかが怪しいが……まぁ、だからこそ、私が行かねば話になるまい。休むか」
「はい」
花は手早く空になった器を纏めて、炊事場の方へと下げに行った。こちら風に纏めた髪と、質素な家着も、もう改めて似合うと感じないほどに見慣れた。
幸せだ、と。
そう、思う。
(……けれど)
(先程のあれは、……あれは、たしかに、悪夢だった)
『石になって――』
孟徳の笑みが、脳裏に閃いた。冷たく笑う人だった、と、なんだか唐突に、思い出すようにそう思った。何故過去形なのか、よく、わからなかったけれど。
* * *
翌日。
「頭痛い……」
「それはいけませんね。医者を呼びましょうか」
「いいよ。……二日酔いだって分かってるくせに言うんだもんなぁ。お前、弱いのに最近次の日けろっとしてるし」
それは花が、と、言いかけて、やめた。ますます恨みがましい目で見られそうだ。
「お年を考えて、自重なさったら如何ですか」
「うわ。見た目なら俺の方が若いのに」
「丞相は十年前からそのお姿でしょう」
「そういうお前の十年前は、かっわいくない子供だったけどな」
孟徳はどこか懐かしげに目を細めた。文若は小さく眉を寄せる。若い頃、というか、幼い頃の話など、されたいものではない。
「あの頃からそんな風に顰め面してて」
「……丞相、仕事」
「そのまま固まるんじゃないかと思ったよ」
文若の台詞はあっさりと流される。ちらりと思わせぶりに流された視線に、文若の眉がますます寄った。そして、ふと、思い起こされる、何か。
『――そのまま固まって、』
『石に、』
「……丞相、」
「うん?」
「私は、石になってしまったでしょうか」
文若らしくない言葉だった。孟徳がぱちりと目を瞬くのが見える。
我ながら、何を言っているのか――慌てて撤回しようとした言葉が、孟徳の、なんだか嬉しそうな笑顔で遮られる。
「なんだ。お前も、覚えてたのか。記憶力いいなぁ」
「……」
「――ちょっと前のお前は、みごとに笑わないし、眉間の皺も常備だし、石って言うか岩って言うかって感じだったけど」
なかなかにひどいことを言われている気がする。けれど孟徳は、なんだか安らいだような顔で言葉を続けた。
「今のお前は、豆腐だな。うん。頭をぶつけてしまえ」
「……は?」
予想外の言葉に、間抜けな声が出た。ぽかんとした文若に、孟徳は声を上げて笑う。
「ほら、そんな顔もする。ふにゃふにゃしてて、とても石って感じじゃないな」
「……なんというか、とても褒められている気がしないのですが」
「いやー、褒めてる。ちょー褒めてる」
「……丞相」
「そんな怖い顔しても、怖くないよ」
文若は溜息をついた。何を言っても無駄だ。こういうときは実力行使に限る。文若は書簡を纏めて手にとり、どん、と、孟徳の机へ置いた。
「昔話に浸れるほどお暇でしたら、仕事はまだまだ沢山ありますので、存分にどうぞ」
「……でも、かわいくないとこは変わんないんだもんな、もう」
「なにか?」
「なんでもないよ」
また頭が痛くなってきた、とぶつぶつ呟きながらも、孟徳は大人しく書簡を開く。
(……そうか、豆腐か)
とても褒められている気はしないが――しかし、なんだか、昨日の悪夢から――ようやく醒めたような、奇妙に清々しい気分だった。
(お前みたいに幸せな奴なんて、豆腐のカドに頭をぶつけて死んでしまえ! By丞相)
(……、……煩い声だ)
「ほら、やっぱり。すっかり固まってしまっているじゃないか」
(何がだ、私の何が)
「そうしてすっかりお前は笑わなくなってしまって」
(……何を、言っているのだ)
「ほら、すっかり、石になって――」
「……さん、……文若さん?」
「……!」
揺り起こされて、一瞬、夢と現が交差した。
片手に濡らした布巾を、机の上に水の椀を置いて、不安げな顔で花がこちらを見ていた。
(……そうか、また)
宴会の帰り――館に帰りついたはいいが、酔いを醒まそうと座っているうちに眠ってしまったのか。
「……すまない」
「いえ。お水、飲みますか」
「ああ、頂こう」
すっかり手馴れた様子で杯を差し出すのを受け取り、ゆっくり口に含む。口内に残った酒精のべたつきが洗い流されていくようで、やっと人心地ついた気がした。
「何か、夢でも見てらしたんですか?」
柑橘を剥いて皿に並べながら、花が首を傾げる。夢。覚めた瞬間に拡散して、もう朧にも捕まえられないが、確かに何か、夢を見ていた気がする。
「どうしてそう思う、……まさか」
何か、口走っていたか。文若は寝言の気があり、一度うっかり孟徳に見咎められたときは、一ヶ月はその話でからかわれたものだった。
僅かに慌てた文若の前で、花は困ったように答えた。
「すこし、顔が険しい気がしたので……悪い夢を見ているのかと思って」
心配で、慌てて起こしてしまいました。花の言葉に、僅かに、散っていた記憶が集まってくる気配があった。
(悪い夢……、……だったのか、あれは)
「……丞相が、出てきた気がするが」
「孟徳さんですか? あ、えっと」
じゃあ、悪い夢じゃなかったのかもしれませんね。孟徳の夢を悪夢扱いしたことがバツが悪かったのだろう、花は慌てて、あまり庇い立てになっていないことを言った。文若は思わず、小さく笑う。
「いや、丞相だからこそ、悪い夢だろう。未採決の書類を山と積み上げられるような」
「確かにそれは、悪夢ですね」
花も文若の補佐として、孟徳のさぼり癖に困らせられたことを思い出したのだろう。つられたように笑う。
「よし。……剥けました、どうぞ」
「ああ、すまんな」
話しながらも止まっていなかった花の手は、こちらの小刀にもすっかりなれて、堅い皮の果実から器用に実だけを取り出している。なんでも、果物の皮を剥くのは得意なのだそうだ。酔い醒ましにいいと聞いてから、花はいつもこの酸味のある果実を剥いてくれる。
二人で、あまずっぱい実を摘む。外から、虫の鳴き声が聞こえてきた。
穏やかで、やさしい夜。
花は出仕をやめ、この館で荀文若の夫人として静かに過ごしている。こうして彼女がなにかれとなく世話を焼いてくれるのがなんだか自然になって、どれほど経つだろう。
「そろそろ、休みますか? 明日の朝議は、みなさん二日酔いかもしれませんが」
「丞相が起きてくるかが怪しいが……まぁ、だからこそ、私が行かねば話になるまい。休むか」
「はい」
花は手早く空になった器を纏めて、炊事場の方へと下げに行った。こちら風に纏めた髪と、質素な家着も、もう改めて似合うと感じないほどに見慣れた。
幸せだ、と。
そう、思う。
(……けれど)
(先程のあれは、……あれは、たしかに、悪夢だった)
『石になって――』
孟徳の笑みが、脳裏に閃いた。冷たく笑う人だった、と、なんだか唐突に、思い出すようにそう思った。何故過去形なのか、よく、わからなかったけれど。
* * *
翌日。
「頭痛い……」
「それはいけませんね。医者を呼びましょうか」
「いいよ。……二日酔いだって分かってるくせに言うんだもんなぁ。お前、弱いのに最近次の日けろっとしてるし」
それは花が、と、言いかけて、やめた。ますます恨みがましい目で見られそうだ。
「お年を考えて、自重なさったら如何ですか」
「うわ。見た目なら俺の方が若いのに」
「丞相は十年前からそのお姿でしょう」
「そういうお前の十年前は、かっわいくない子供だったけどな」
孟徳はどこか懐かしげに目を細めた。文若は小さく眉を寄せる。若い頃、というか、幼い頃の話など、されたいものではない。
「あの頃からそんな風に顰め面してて」
「……丞相、仕事」
「そのまま固まるんじゃないかと思ったよ」
文若の台詞はあっさりと流される。ちらりと思わせぶりに流された視線に、文若の眉がますます寄った。そして、ふと、思い起こされる、何か。
『――そのまま固まって、』
『石に、』
「……丞相、」
「うん?」
「私は、石になってしまったでしょうか」
文若らしくない言葉だった。孟徳がぱちりと目を瞬くのが見える。
我ながら、何を言っているのか――慌てて撤回しようとした言葉が、孟徳の、なんだか嬉しそうな笑顔で遮られる。
「なんだ。お前も、覚えてたのか。記憶力いいなぁ」
「……」
「――ちょっと前のお前は、みごとに笑わないし、眉間の皺も常備だし、石って言うか岩って言うかって感じだったけど」
なかなかにひどいことを言われている気がする。けれど孟徳は、なんだか安らいだような顔で言葉を続けた。
「今のお前は、豆腐だな。うん。頭をぶつけてしまえ」
「……は?」
予想外の言葉に、間抜けな声が出た。ぽかんとした文若に、孟徳は声を上げて笑う。
「ほら、そんな顔もする。ふにゃふにゃしてて、とても石って感じじゃないな」
「……なんというか、とても褒められている気がしないのですが」
「いやー、褒めてる。ちょー褒めてる」
「……丞相」
「そんな怖い顔しても、怖くないよ」
文若は溜息をついた。何を言っても無駄だ。こういうときは実力行使に限る。文若は書簡を纏めて手にとり、どん、と、孟徳の机へ置いた。
「昔話に浸れるほどお暇でしたら、仕事はまだまだ沢山ありますので、存分にどうぞ」
「……でも、かわいくないとこは変わんないんだもんな、もう」
「なにか?」
「なんでもないよ」
また頭が痛くなってきた、とぶつぶつ呟きながらも、孟徳は大人しく書簡を開く。
(……そうか、豆腐か)
とても褒められている気はしないが――しかし、なんだか、昨日の悪夢から――ようやく醒めたような、奇妙に清々しい気分だった。
(お前みたいに幸せな奴なんて、豆腐のカドに頭をぶつけて死んでしまえ! By丞相)
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