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姫金魚草

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天の子供 (孟徳)

(孟徳、というより、献帝と花ちゃん。)



願いの声が聞き届けられたのは、日差しの暖かい日のことだった。
そこはあたたかでうつくしい牢獄だった。牢獄だと思って居なければ、とてもそうは見えない類の。美しい女官に囲まれて、暗い眼をした子供がそこにいた。
花は、彼が誰であるのかを知っていた。光の無い目が花を見て、首を傾げた。
声を出さずとも答えが返ってくる者の、緩慢な動き。何一つ不自由しない牢獄で育てられた子供の、悲しい動きだ。
「花、と言う者です」
孟徳は感情の読めない顔と声で、慇懃に言った。彼が唯一、この国で、見掛けだけとは言え礼をとって相対する人物。――献帝は、ぼうとした眼差しになんの色も見せずに、頷いた。
何を言っていいのか、わからなかった。あの時、花が手放してしまった子供。そうして仲穎と、恐らくは孟徳も、道具のようにしか扱ってこなかった子供。
謝るのは、容易かった。あの時、助けられなかったことを、謝るのは。けれど隣に立つ孟徳以外の誰もが知らないことを、ここで言っても詮のないことだ。呆然と立ち尽くしていると、子供は不思議そうに首を傾けた。
「頭を、下げぬのか?」
平坦な、機械めいた声音だった。花ははっとして、慌てて頭を下げる。孟徳が、こちらも平板な声で言った。
「彼女は異国の出で、こちらの慣習に疎いのです。ご容赦下さい」
「……構わぬ」
献帝は目を閉じて頷いた。花は頭を上げて、もう一度、献帝を見つめた。ただ、哀しい。それが子供の置かれた状況にであるのか、それとも――この子供をこんな風にしてしまった隣の男にであるのか、判然としなかった。孟徳はなにも言えないでいる花にちらと視線を向けると、献帝へと向き直り、頭を下げた。
「彼女は、私の軍師の一人なのですが、どうしてもお目通り願いたいと言っておりまして、こうして案内した次第です。少し、時間を頂いても構いませんか」
「……」
子供は何もかもがどうでもいいと言いたげな調子で、ゆるく頷いた。孟徳はその動作を認めてから、では、と言葉を次いだ。
「私は公務がありますので、席を外させて頂きます。何かありましたら、使いを」
子供はまた、緩くうなずいただけだった。花は驚いて孟徳を見やった。孟徳が花を思って場を作ってくれたことはわかっていたが、何を話していいかも分からない状況で、置いていかれるのも不安だった。花の視線に気付いて、孟徳は少しだけ微笑んだ。
困ったような、笑みだった。孟徳は花を、此処に連れて来たいとは思って居なかったはずだ。この子供はたしかに、多くの彼の罪のうちの一つなのだから。
それでも孟徳は、花の願いを聞いてくれた。そう思えば、機会を無にすることは出来なかった。花は口元を引き締め、献帝へと向き直った。
「花です。……私は、……私は一度、陛下に、お会いしたことがあるんです」

* * *

謁見というには簡素に誂えられた茶席に、女官が茶を運んでくる。こういう場での作法は、未だに良くわからない。けれど花が辺りを伺ったところで、この場の主である子供も、ついている女官も、読めない無表情を返してくるだけだった。思わず溜息が出そうになり、慌てて口元を引き締める。
「……花、と言ったか」
「はい」
子供はぼんやりと花を見ながら、ゆっくりとした口調で言った。
「さきほどのことばは、どういう意味だ。朕は、お前を知らぬ」
「はい。……まだ、赤子の頃でしたから」
「そうなのか。それは、仲穎よりもまえのはなしか」
「はい」
子供ははじめて、表情らしいものを見せた。眉が僅かに寄る。
「そのころの朕を知るものは、もう、だれも生きてはおらぬと聞いた」
仲穎がそして孟徳が、殺したのだろう。花にも、それくらいのことは予想が出来た。
「私の腕の中で、泣いていました。私は、助けることが出来なかった」
悔いています、と。
ぽつりと呟くと、献帝はほんの僅かに、目を見開いた。それから、唇に笑みのようなものを上らせる。
「それで、助けに来たとでも言うのか」
出来るわけがない、と、言いたげだった。ひんやりとした空気は、そのまま、子供と孟徳の間にある空気を想像させた。花は困って、首を傾けた。
「私には……陛下を助けると言うことがどういうことか、わかりません」
「……」
「あの時はただ、陛下を抱いて逃げればよかったのかもしれません。けれど、今は……今、陛下を抱いて逃げることは、陛下を助けることでしょうか」
子供に言うような話ではなかった。そして、こんなことを言っていると孟徳に知れたなら、花であってもただではすまないような話だった。献帝は、とりようによってはあからさまに孟徳への反旗へ繋がる言葉に、流石に驚いたようだった。
「お前は、孟徳の軍師ではないのか」
「孟徳さ、……と、……丞相は、そう言って下さっています」
「……」
献帝は目を瞬いた。そうして彼が驚くたびに、彼の顔を覆っていた薄い膜のような無表情が剥がれ落ちていくのが、それだけでなんだか嬉しいような気がした。何に驚いたのかはわからないけれど、と思っていると、子供ははじめて、子供らしい声で反駁した。
「孟徳さん。……お前は孟徳を、そう呼ぶのか」
「え、と……はい」
「……孟徳を名で呼び、朕を助けることを考える。お前は、なにものだ?」
どちらの味方かと問うようで、純粋に驚き、不思議がっているようでもあった。花はどう答えるべきか少し迷い、結局一言で言い切れずに、困ったままに口を開いた。
「私は、丞相と、共に生きることを誓いました」
口に出せば妙に面映く、誇らしいような、申し訳ないような、不思議な心地がした。子供は黙って、花の言葉を聞いている。
「だからこれは、私の我侭なのかもしれません。……孟徳さんに、辛い思いをさせたくないんです」
「それのなにが、朕に関係がある?」
朕はあの男にとって、ただの道具であろう。
嘲るような、言葉だった。
花はゆっくりと、言葉を返した。
「そうかもしれません。けれどそれは、……陛下だけではないんです」
「……」
「孟徳さんはもう、人のことを、……それに自分のことも、そうやって扱うことに、慣れきってしまっている。私はそれが、いやなんです」
孟徳にとって、目の前の子供は、『帝』という道具だろう。
それと同時に、孟徳にとって、曹孟徳は、『丞相』という道具だった。
自分も他人も、天下の為の道具だと、割り切ってしまえる男だった。
誰もが、道具などではありはしない。
花にはそれを、上手く伝えることが出来なかった。丞相として生きる彼の傍に居ようと決めた。彼はただ、花の傍でだけ、一個の人間であればいいと笑うけれど。けれど、それはやはり、哀しいように思えた。
「……孟徳は、幸せ者よな」
「……すみません」
責められているような気がして、思わず花は謝ってしまう。そうして一人の人間として扱われてこなかった、まだ幼い子供の前でするに、相応しい話ではなかった。けれど献帝は、よい、と静かに言った。そして、何か手繰り寄せるような目をしながら、ぽつぽつと言葉を落とし始めた。
「……近頃、孟徳が来ることが増えた。政のことかと問えば、違うという。なのになんのはなしをするでもない。茶を飲んで、帰っていく」
それは、花も知らない話だった。驚いた花に、献帝は僅かに口元を綻ばせて、言った。
「訳を聞いた。……わけあって情が湧いたと、笑っていた。あんな顔をする男だとは、知らなかった」
不敬な言葉だと、花にでも知れる言い草だった。孟徳らしい言い方である気もした。
わけ、が、花にはなんだかわかる気がした。あの時助けられなかった子供。彼は最初から帝を道具のように言っていたけれど、一度触れた赤子をそう扱えるような人物ではないことを、花はよく知っていた。
人が怖いくせに人が好きなのだ。
「……ずいぶん長居させてしまった。また、茶を飲みに来るといい」
献帝は話しつかれた様子で息を吐いて、言った。
「異国のものだと言っていたな。次は、お前の国の話を、聞かせて欲しい。……大きな果実の話や、鶴の話を」
「……え。なんで、知って」
「ああ、やはりあれは、お前の話だったのか」
孟徳が、話に困って、語っていったのだ、と。
下手な語りだった、と無表情に言う子供に、花は思わず笑ってしまった。
子供の前で苦笑しながら、御伽噺を口にする孟徳の姿は、なんだかとても微笑ましく――そしてなんだか、どうしようもなく、心があたたかくなる想像だった。















(溝を埋める)
(孟徳√で献帝が出てこないことが気になっていたので、仲直りを妄想する。)

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