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姫金魚草

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安寧 (孔明)

「……師匠」
「んー?」
「あの、膝」
「重い?」
「いえ、でも」
お仕事、と。恐る恐る呟くと、やはり孔明はとたんに顔を顰めた。
「今日はやめって言ったでしょー」
「いいんですか、それで」
孔明の執務室は、自室と続き部屋になっている。相変わらず机に書簡の山を築いていた孔明が、突然「……やめた!」と叫んで花の手をとり、自室の寝台へと座らせて――そして、花の膝を枕にして、横になり、今に至る。
(……枕、そこにあるのになぁ)
不思議である。内心首を傾げていると、孔明が仰向けになって花を見上げた。
「師匠?」
「ね、撫でてよ」
「え?」
「ボク、大分頑張ってると思うんだよねー。だから、えらいえらいってしてよ」
「はぁ」
たしかに孔明は、一頃の放浪癖が嘘のように、日々執務室にカンヅメになっている。小間使いのようなことをしている花は色々と城の中を走り回っているが、孔明は部屋に人を呼ぶことはあっても、部屋から出るのは精々玄徳と話に出向くときぐらいだ。
孔明が、ひとところに居つけるような人物でないことは、なんとなくわかる。そう思うと、寧ろ今までよく持ったほうかもしれない。花は一人納得して、乞われるままにそっと孔明の頭に手を乗せた。
「師匠は偉いですねー。よしよし」
「そうそう、ボクは偉いんだよ。毎日毎日、見るのは書簡の山ばかり……」
孔明は目を閉じて溜息をつく。孔明が愚痴めいたことを言うのは珍しい。花は僅かに眉を寄せた。
「すみません、私がもっと役に立てればいいんですけど」
「え? や、これ以上君に役立たれたらボクの仕事がなくなっちゃうけどね」
「なくなっちゃえばいいんですよ。……師匠、ほんとうは」
「ん?」
ほんとうは、昔のように、旅がしたいんじゃないですか。
言ってしまったら、本当に孔明がどこかふらりといなくなってしまう気がして、花は口を噤んだ。孔明は閉じていた目を開いて、花を見上げた。眠たいのだろうか、どこかとろんとした目だ。
「いえ、ごめんなさい。すこし、おやすみになりますか?」
「んー? ……うん、眠いんだけどさ。眠れそうになくもあるというか」
「え?」
「いやいや、こっちの話。……ボクの仕事だけなくなってもなぁ」
僅かに目を細めた孔明が、花に向かって手を伸ばす。
「そしたら君が忙しくなって、ボクがこうやって、えらいえらいってしてあげるのか。それもいいなぁ」
孔明の指先が花の頬を優しくなぞる。首筋に降りた手がくすぐったくて、花はすこし笑った。
「師匠、くすぐったいですよ」
「んー?」
「……む」
聞こえないフリで指先を動かす孔明に、花は僅かに唇を曲げた。孔明の髪を撫でていた手を、孔明と同じように、首筋に下ろしていく。やられたらやりかえす!
「あ、ちょ、両手はずるい両手は」
「え? なんですか?」
「……、っ」
孔明の顔が歪む。意外とくすぐったがりなのかな、とすこし微笑ましく思ったところで――孔明の手が花の手を掴み、片手をついて体を起こして。
「うん。やられたらやりかえさないとね?」
にこり、とひどく楽しげに微笑んだ――そしていつの間にか、倒れていたのは花のほうだった。
「え」
なにこの早業。
うっかり寝台に押し倒されて――孔明の手がわきわきと動き。
「っ、ひゃ、や、ししょ、やめてください!」
「やられたら、やりかえせばいいじゃない」
「むり! むりです!」
腰の辺りから脇の下に向けて、孔明の手は巧みだった。せめてダメージを軽減しようと腕を寄せるのが精一杯で、反撃など出来よう筈もない。降参です! と半ば叫ぶように言ったときには、笑いすぎて涙目になっていた。
「弱いなぁ、もう」
「ひどいです……」
うう、と呻きながら睨み上げる。
「最初にやったのは師匠なのに……」
「記憶にないなぁ」
孔明は楽しそうに笑って――それから、すっと目を細めた。唇からも笑みが消えると、先ほどまでのふざけた空気が掻き消えて、急に――急に、この姿勢を意識させられる。
(あれ、えっと)
(なんで、こんなことに)
「し、」
ししょう。
声は、意図せず掠れた。孔明は少しだけ、笑った。
「こういうときは……名前の方が、いいなぁ」
「え」
「花、」
好きだよ。
真っ直ぐに見つめられて、囁くように言われて、そうして、顔が、近付いてくる。目を閉じるのが、正しいのだと、わかっていたけれど――花は動くことを忘れてしまっていた。
「……、」
孔明の唇は――優しく、花の頬に落ちた。すこし困ったように笑った孔明の体が離れると、やっと、呪縛から解かれたように、身体を動かすことを思い出した。慌てて起き上がり、髪をわたわたと整える。孔明はそんな花を、面白そうな目で眺めている。
(……うう、)
(恥ずかしい……)
思わず孔明を睨んでしまう。怖い怖い、と孔明は肩を竦めて、んー、と伸びをした。
「さて、気分転換もしたし、お仕事頑張りますかね」
「今のは、気分転換ですか……」
「お。恨みがましい声だ」
何を言ってもからかわれるだけのような気がして、口を閉じる。孔明は立ち上がって、花に手を差し伸べた。
「……」
むくれた顔のまま、孔明の手をとって立ち上がる。すっかりよれてしまった服をはたいていると、執務室に向かいかけた孔明が、ふと、振り向いた。
「ねぇ。ボクは頑張ってるけど、無理はしてないよ」
「……え?」
「嬉しいんだよ、ここに居ることが出来て。ここに居たいんだ」
孔明は晴れやかに笑った。花は目を瞬いて――それから、泰山のふもとで出会った彼が、此処に居ることの意味を、考えた。
(此処を)
(故郷にしようと、そう思った)
帰らないと決めたときに――そう、決めた。
(それは、もしかしたら――師匠も、そう、だったのだろうか)
花は孔明を見て――そして、同じように、笑った。
「はい。私も、此処に居たいです。師匠と、一緒に」
そうして、孔明を追いかけるように小さく駆けて、くい、と、手を引く。
「――え、」
ぱちりと瞬かれた孔明の目が傍に見えて、背伸びをした先で、花の唇が、孔明の頬を掠めた。
「やられたら、やりかえします」
「……」
顔が赤らんでいるかもしれない。思いながらも、なるべく平静を装って、言う。孔明は大きく目を見開いて――「じゃあ、やりかえさないとね」と笑って、ゆっくりと、花の唇に唇を落とした。














(君と過ごす日々に感謝を。)

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